2011/04/24 「涙から喜びへ」 《イースター礼拝》 | ||
聖書: ヨハネによる福音書 20章5〜18節 | 説教: | |
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
それから、この弟子たちは家に帰って行った。 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 |
甘い姿勢のせいでしょうか、人の意地悪が原因でしょうか、気が付いた時には、マグダラのマリヤは人から後ろ指をさされる人になっていました。(ルカ8・2) あなたの苦しさやくやしさもわかっている、でも、怨んでも呪っても人生は開けない。「私もあなたを罰ない」と言われ、ありのままを引き受けてくださるイエス様に出会ってマリヤは立直ります。周りの人への恨みも、自分を赦すことも出来たのです。 悪いことは何もせず、愛と赦しを説き続けられたイエス様が十字架で殺害される。更に、こともあろうに御遺体まで無くなってしまう。イエス様の上に起こった二度の惨事にマリヤは墓で泣き続けます。 そこに主が顕れます。甦られたイエス様とわかり、「ラボニ(先生)」と言ってすがりつこうとするマリヤに、イエス様は「わたしにすがりつくのはよしなさい」「わたしの父であり、あなたがたの父である方のところへわたしは上る」と言われます。 どんなにすばらしい思い出でもそれにしがみつくのではなく、自分の中にイエス様を取り込むのではなく、「わたしの父があなたがたの父」となられた神様に自分を委ね、礼拝に生きよ、と主は言われます。 マリヤは「私は主を見た」、私はまた主に見いだされたと語り続けます。これが私たちにも起こるイースターの喜びです。 |
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2011/04/17 「成し遂げられた」 | ||
聖書: ヨハネによる福音書 19章28〜42節 | 説教: | |
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。エスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。 |
人が死ぬと、死亡を確認し、遺体を処理します。イエス様の場合も同じでした。 十字架の上で「成し遂げられた」と言って息を引き取られ、本当に死んだことを確認するため脇腹を槍で突かれ、墓に葬られたのでした。午後三時からの数時間のあわただしい出来事が、実に丁寧に記されています。 これには分けがありました。当時、肉体は悪で精神が善と言う教えが教会に大きな影を落としていました。肉体を軽視しますから、放縦な生き方か厳しい禁欲の生活へ人を導きます。その教えでは神が人となると言うことは考えられず、神の子が現れたのは仮の姿であり、死ぬ事などはありえないことでした。しかしそこには、肉体の持つ罪と死におびえる人間の救いはありません。 キリストは私たちの死に切り込んでこられます。私たちはキリストの死の中に飛び込んだらよいのです。アリマタヤのヨセフは自分のために用意した墓にキリストを葬り、ニコデモも没薬と沈香を混ぜた物を捧げました。キリストの葬られたところに自分が葬られ、キリスとの死と自分の死を一つにしたのです。キリストの死に与る願いは、甦りによってもっとすばらしいものに変えられましたが。 「成し遂げられた」とのキリスとの叫びは「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された」(ヨハネ3・16)の完成の叫びです。(参Tテサロニケ5・9-10) |
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2011/04/10 「苦しみに立ち向かう」 | ||
聖書: ヨハネの黙示録2章8〜11節 | 説教: | |
スミルナにある教会の天使にこう書き送れ。『最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。 「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していることを、わたしは知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。
あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。
耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。」』 |
スミルナの教会は苦難と貧しさの中にありました。それは折り紙つきのもので、ユダヤ人の誹謗とも関係していたようです。しかしスミルナの教会はそれらに負けませんでした。イエス様はそれをお褒めになり、「苦難を恐れてはならない」「死に至るまで忠実であれ」と励まされます。 苦しみは、逃げればもっと苦しくなって返ってきます。いやいや関わるともっと辛さが増します。病気でも仕事でも境遇でも皆そうです。苦しみへの妙薬などありませんが、それでも病気の中で、神様がこの病気を通して何を見せてくださるかを期待し、人生のピンチに神様の導きの御手を見せていただく、腹をくくって積極的にそれに立ち向かうのです。 人生一般の苦しみならそれでいいかもしれません。しかし信仰者の苦しみは避けようと思えば避けられる、神様の御心に従おうとするからくる苦しみです。 悪いことをすれば、目先のことでは得をしたように見えても結局は損なのです。善いことが長い目で見れば得なのです。悪いことは結局損で、善いことが得だからすると言うのでは不十分です。たとえ損をしても、しなければならないことはしていくという覚悟が出来なければ人生に背骨が入ったことにはなりません。信仰を持ったら恵まれ、人生が豊かにされる。それも事実ですが、信仰をもって苦しみ、たとえ損をしてもイエス様に従っていくという覚悟が出来て初めて信仰に背骨が入ります。そしてそれが本当の豊かさなのです。 |
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2011/04/03 「居場所のある教会」 | ||
聖書: ヨハネの黙示録2章1〜7節 | 説教: | |
エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。
あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。
だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。
だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」』
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教会を取り巻く雰囲気が次第に厳しいものになり、この世界がこの先どうなりどこへ向かうのか、歴史の主、やがて現される神様の栄光の秘儀を記して人々を励ましたのが黙示録です。先ずそれを担う教会が整えられなければなりません。 エフェソの教会は、信仰の働き、望みの忍耐、愛の労苦が実践され(テサロニケの信徒への手紙一1:12)、悪い者を許しておけず、偽教師を処置しました。皇帝礼拝にも屈せず信仰の節操を守り通しました。理想的な教会で、それをイエス様は褒めておられます。 「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。…もし悔い改めなければ、…あなたの燭台(教会)をその場所から取りのけてしまおう。」とイエス様は言われます。 「初めのころの愛とは」その人を、そのまま条件を付けずに愛し、また愛される花嫁の時の愛で(エレミヤ書2:2)、イエス様が私たちにして下さった愛です。この愛に生きるのでなければ、何が出来ても教会は教会でなくなるのです。 「自分のクラス形成の目標は、問題児と言われている子供がここに自分の居場所があると思えるクラス」と聞きました。あの人の居場所がある教会。自分もここに居場所のある教会にならないでしょうか。 |
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