説教


 2011/05/29 「天地の造り主を信ず」    
聖書:創世記1章1節 〜2章4節    説教: 
初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
 
神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
 
神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。 夕べがあり、朝があった。第三の日である。
 
神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。 天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。 神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。 夕べがあり、朝があった。第四の日である。
 
神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」 夕べがあり、朝があった。第五の日である。
 
神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
 
天地万物は完成された。
 
第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。これが天地創造の由来である。  
   創世記1章〜11章を読むと随分とまどいます。私たちの知っている科学の知識と違うからです。
聖書は科学の本ではありません。科学の目をもって聖書を読み批判することは、詩集に描かれている雲を気象学の目をもって批判するのと同じくらい奇妙なことです。聖書は、神・罪・救い以外は関心がないのです。
 
創世記は、1章〜11章までと12章は分けて考えたら良いと思います。1章〜11章は歴史的な記述ではなく聖書全体の序論です。神様はどのような方か、人間とは何か、罪とその結果それが大変素朴な表現で記されています。
12章以下は罪にまみれた人間を救うために神様はアブラハムとその末に祝福と救いを托された記録です。(しかしイスラエルの民はその祝福と救いを担いきれず、最後に神様は独り子イエス・キリストをお送り下さって人の救いを全うしてくださいました。これが新約聖書です)

 「はじめに、神は天地を創造された。」これは聖書全巻を貫くメッセージです。
「はじめ」とは時間のはじめ以上に、根本的、究極的という意味です(参照:ヨハネ1章1節)。この世界の出発、根源を語り、しかもこの世は神様の然り(根本的な肯定、(1・31)の中に保持されていることを宣言しています。

 聖書の最初の書物は創世記ですが、創世記が初めに書かれた書物ではなく、BC8世紀ころに纏められたものです。
 信仰の民イスラエルはBC722年アッシリヤによって北イスラエルは滅ぼされ、BC586年南ユダヤはバビロンによって滅ばされました。国を失いバビロンに奴隷として連れて行かれ、改めて自分たちの信仰を捉えなおしたのです。神は自分達を捨てたのか、自分たちの神はバビロンの神に破れたのか、この苦しみの意味は何か。人は苦しみの中で生き方が深められます。楽しみは人生に彩りは与えますが、残念ですが人を鍛え深く教えるのは苦しみです。イスラエルの民はその塗炭の苦しみの中で、その疑問を一つひとつとらえなおし、改めにその信仰の歴史を書き記したのが創世記以下の書物です。
 イスラエルの信じる神はバビロンの神に負けたのでもイスラエルを捨てたのでもない。神は天地の造り主で、その造られた世界をもっとも深い所で「よし」としてくださっている。

 天地の造り主を信じるとは、神が粘土細工のように世界を造ったと考えたり、私と無縁のところで宇宙の生成について思案するということではありません。
国を失い、健康をそこない、事業が傾き、死に瀕する中で、一体誰がこの世と私を支えてい給うかを知らされ、告白することなのです。
 「世の中は神様が造られたものだから、運命を恐れず、こっちさえ本当の信仰をもっていれば必ず祝福される」と言い続けて、羽仁もと子さんは困難な事業を続けたのでした。


 2011/05/22 「共に生きよう−隣人・教会に平安があるように」  
聖書:詩編122編1〜9節     説教: 
 主の家に行こう、と人々が言ったときわたしはうれしかった。エルサレムよ、あなたの城門の中に/わたしたちの足は立っている
エルサレム、都として建てられた町。そこに、すべては結び合い
そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。
そこにこそ、裁きの王座がダビデの家の王座が据えられている
エルサレムの平和を求めよう。「あなたを愛する人々に平安があるように。
あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城郭のうちに平安があるように。」
わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」
わたしは願おう わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」


   「わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』
わたしは願おう、わたしたちの神、主の家のために。『あなたに幸いがあるように』」

イスラエルの民にとってエルサレムは特別のものでした。神様はどこでも一緒にいて下さいます。だからこそエルサレムで、時を定めた祭りで、神様を礼拝するのです。ここに最大の喜びがあります。

礼拝で神様の赦し、愛、恵みをいただき、それを家に持ち帰ります。伝道はなにか特別のことをすることではありません。いただいた祝福を家族に、隣人に祈ることです。時には顔を会わせることもはばかられ、腹の虫が納まらないこともあるでしょう。しかしその人に神様の祝福を祈る。これが伝道です。

そこで神様に出会い、祝福をいただく主の家(キリストの体である教会)。その主の家のためにも幸いを願います。赦し赦され、受け入れ受け入れられ、それが実感できる教会となるよう言葉も心も整えるのです。内側だけでなく外側も、教会を愛する思いがにじみ出ているような手入れをするのです。

 2011/05/15 「生ける名はあれど死にたる者     
 聖書:ヨハネの黙示録 3章1〜6節   説教: 
サルディスにある教会の天使にこう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。 目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。
しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。
耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』
  サルディスの町は天然の要塞に守られ、羊毛の集散地で、それなりに富み、教会は活動的でした。しかも、他の教会のように皇帝礼拝も余りなく、ユダヤ人の迫害も異端の教えもありませんでした。そんな教会に対してイエス様は「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」と言われます。 
教会には問題がない代わりに戦いもなく、目指す目標も緊張もなかったのかもしれません。今の状況に満足して自己完結していたのでしょう。そこには生き生きした喜びはありません。自分のためだけに生きる人には生きがいはないのです。それは教会も同様です。

イエス様は「目を覚ませ、死にかけている残りの者たちを強めよ。どのように受け、また聞いたかを思い起こして、それを守りぬけ」と言われます。自分の問題を知ること、自分が受けたことに立って隣人を視野に入れることです。福音は救われた者に止めおかれるものではなく伝えられるべきものなのです。
「強めるとは」イエス様を裏切ったぺトロへの「あなたは立ち直ったとき、兄弟たちを力づけてやりなさい」の言葉と同じです。人は自分が救われるだけではまだ半分しか生きていません。自分が救われることで人も生きる、これで救いが完結します。神様の結びつくこと(私達が生きること)を、隣人が生きることで確認するのです。

2011/05/08 「隠れた思いを見る神の前に生きる   
聖書:ヨハネの黙示録 2章18〜29節    説教: 
ティアティラにある教会の天使にこう書き送れ。『目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる。「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている。しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない。 見よ、わたしはこの女を床に伏せさせよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい苦しみに遭わせよう。 また、この女の子供たちも打ち殺そう。こうして、全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。わたしは、あなたがたが行ったことに応じて、一人一人に報いよう。 ティアティラの人たちの中にいて、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らないあなたがたに言う。わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない。ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。彼は鉄の杖をもって彼らを治める、土の器を打ち砕くように。同じように、わたしも父からその権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』
  イエス様はその教会に一番ふさわしいお姿で現れます。ティアティラの教会には「目は燃え盛る炎のようであり、足は真鍮のように輝いている」と方として現れ、「全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だ」言われます。
それには理由があります。ティアティラの教会は信仰が形をとり、初めよりもっと活発に活動している教会でしたが、イゼベルという女預言者に惑わされたのです。イゼベルは旧約聖書に出てくるアハブ王の后で外国の皇女、嫁ぐ時に異教の神をイスラエルに持ち込み、民を惑わしたのでした。
ティアティラは商業の盛んな町で、職種に従って組合がありました。組合に加っているかどうかで商売には大きな違いがありました。イゼベルといわれた女預言者は、信仰をしっかり保って信仰者も偶像の宮で行われる組合に入り、組合を信仰の高さにすればいいとでも言ったのでしょうか。教会の一部の人はこの言葉に従って、何と逆に形が心を変え、信仰を変質させてしまったのです。

間違いを正されることは人格を否定されたようで辛いことですが、考えてみれば幸いなことです。間違いのない人はいません。間違いをすることが残念なことではなく、間違いを指摘してくれる方をもたないことが残念なのです。
私たちは礼拝で、何もかもを見通す主の前に立ち、天下晴れてその歩みを整えられたいと思います。これに勝る幸いはあるでしょうか。
 

2011/05/01 「ゆずれない一線」     
聖書:ヨハネの黙示録 2章12〜17節   説教:
ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。
しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。 同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」』
 

 ペルガモンは政治・文化の都市で、そこにも皇帝礼拝があり、「アスクレピオス」という蛇を紋章とする病気治癒のお宮があって繁栄していました。信仰者はそこに住み、時には殉教者を出しても、教会はその信仰の旗を掲げ続けたのでした。

そんなペルガモンの教会に主は言われます「あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところにはバラムの教え(信仰的な言葉をまぶしてイスラエルを内側から誘惑した教え。ニコライ派の教えも同じ)を奉じる(その支配に入ること)者がいる」と。

信仰者はその地に住み、そこで働き、子を育てます。近所づきあいは避けられないのです。サタンの王座があっても逃げ出せないのです。住むというのはそういうことです。
ペルガモンの教会の人々は、そこで信仰の旗を降ろしませんでした。ところが、そこで生きることと信仰に生きることがいつの間にかバラムの教えを奉じることで結び付けられてしまったのです。

ただ信仰の旗を掲げ続ければよいのではありません。信仰者としてその内側には譲れない一線があるはずです。人は弱いのです。その地で異を唱え続けるのではありませんが、譲れない一線を守るのです。それが実は証しなのです。