説教


 2011/06/26 「愛し支えあって生きる私たち    
  聖書:創世記 2章4〜25節   説教: 
 主なる神が地と天を造られたとき、 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。 その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。 第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取るとそのあとを肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。





   創世記1〜11章を読むと随分とまどいますが、1〜11章までと12章は分けて考えたら良いと思います。
 1〜11章は「原歴史」と言われ、歴史的な記述ではなく、聖書全体の序論です。ここには神様はどのような方か、人間とは何か、罪とその結果、それが大変素朴な表現で記されています。

 「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」(1・26) 
神様はお一人なのに「我々」という表現は妙です。三位一体の神、万軍の主のように神様といつも一緒にいる天の軍勢も含めてのこと、強調する時は複数形で表現するなど、色々理由は考えられますが、千年にわたって書き続けられた聖書は法律の条文のように一字一句に整合性があるわけではありません。
「かたち」とは、スタイルではなくイメージです。ギリシャ神話のように、神様と私たちが同じスタイルというのではなく、神様は人との交わりを欲して人を創造され、人も神様を思わざるをえないように創造されたということです。

それを更に別の角度から詳しく記したのが2・6以下です。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった」(2・7)
人と動物の違いは、道具が使え、言葉をもつかどうかではありません。道具を使う動物はいますし鳴き声でコミュニケーションをとる動物もいます。神様と交われるかどうかです(コヘレトの言葉3・11)。素材は他の動物と一緒ですが、人は神の息によって生きるものとなりました。犬が食前の感謝をしたり、猿がお葬式をすることなどありません。人は神様との関係で生きるものとなったのです。

「人は独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(2・18)
人は、食べて心臓が動き呼吸をしているだけでは生きているとはいえません。動物とは違うのです。
愛し愛され、支えられてそれに応える。このような人格的な交わりによって人は初めて生きていると言えます。人の生きがいは物にあるのではなく人格関係にあります。神様は人をそのように造られたのです。
 神様は男から女を造られ、二人は出会って喜び、一体となります。神様は目に見えません。その声を耳で聞くこともできません。神様と私たちの関係を、私たちは二人の関係の中で映しだしていくのです。これが聖書の本来の結婚です。私たちはなぜ結婚をするかはよく考えますが、何のため結婚するかは考えません。神様との人格的な関係を映し出すためなのです。これは二人だけでなく、親子、友人同士でもそうです。(マタイ18・20、一ヨハネ4・12)
残念なことにこの関係は罪によって損なわれましたが、キリストの罪の赦しと愛によって新たに私たちに差し出されました。創造の秩序は恩寵の秩序によって完成したのです(エフェソ・21〜33。




  2011/06/19 「主を迎え入れる」    
 聖書:ヨハネの黙示録 3章14〜22節   説教: 
ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」





   ラオディキヤは地の利を生かして金融が盛んで、羊毛の集散地、目薬の産地でも有名でした。そこにある教会を「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので口から吐き出そう」とイエス様は言われます。「なまぬるい」とは豊かさの中で自己充足した、弛緩した信仰です。何の不足もなくそれが神様への感謝につながらず、信仰がまるでアクセサリーのようになった信仰です。

「裕福になるように、火で精練された金をわたしから買うがよい」 Tペトロ1:7にあるように「金」とは信仰です。私たちはお金の力を知っています。
しかしお金で友情は買えず、孤独は癒されず、生きがいは与えられません。死の前に何の力もありません。豊かさは人の交わりの中にあり、何より神様を知る信仰以外にないのです。

「裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買え」とは、子羊の血で白くされた衣(7:14)で身を包み、隠れた醜さや罪を覆っていただくのです。

「目に塗る薬を買え」とは、神様と現実を誤魔化さずに見据えることです。信仰は現実に目を閉じることではなく、立つべきところに経たせます。それで視点を長くもち視界を広くさせます。

三つの買い物は、換言すれば、生ける主を私の内に迎え入れることです。得意な時、失意の時、死を前に、イエス様を我が内にお迎えすることこそが最大の豊かさと問題解決なのです。

 2011/06/12 「聖霊に身を委ねる」 《ペンテコステ礼拝》 
 聖書:ヨハネによる福音書 3章1〜17節   説教: 
 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
  ある夜、イエス様に教えを請いに来たファリサイ派に属し、ユダヤ人たちの議員であったニコデモにイエス様は言われました。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」「神の国を見る」とは神様の支配を見ることで、救いの別の表現です。そのためには新たに生まれる必要があります。「新たに生まれる」とは、自分の失敗を改めるといった表面的なことではなく、根本から生き方が変わることで、共観福音書でいう「悔い改め」と同じです。
ニコデモは「年をとった者のが、どうして生まれ変わることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と言いますが、そんなニコデモにイエス様は、丁寧に新しく生まれることを教えられました。
「だれでも水(古い私が死ぬ洗礼の水)と霊によって生まれなければ神の国に入ることができない」
「風(息、霊)は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである」(神の自由な霊の導きに身を委ねる)
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように(人の罪と罪の赦しの方法―民数記21章)人の子もあげられねばならない。それは、信じる者が皆人の子によって永遠の命を得るためである」(霊の導きに身を委ねるとは、神の愛の支配にその身を委ねること)

ペンテコステは信じる者の上に聖霊が下り、その結果教会が誕生しました。それ以来キリストの体である教会には聖霊の導きがあります。「独り子をお与えになったほどに世を愛してくださっている」神の愛の導きに身を委ねるのです。

2011/06/05 「望みの忍耐」  
聖書:ヨハネの黙示録 3章7〜13節   説教:
フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。
「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。
見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。
あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。
わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。
勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』
  フィラデルフィアの教会はイエス様から何のお咎めもなかった教会です。弱く小さな群れで、サタンの仕業としか思えないユダヤ教徒の仕打ちもありますが、信仰の旗を降ろさず忍耐し続けたのです。
人生は、そしていつの時代の教会も苦しみに満ちています。信仰に立とうとすればするほど闘いは厳しくなります。

「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないとは言わなかった」
小さいのによく頑張ったというのではありません。むしろ逆で力が弱かったので頑張ったと考えるのが良いと思います。自分の小ささに気付いているので自分を支えてくれる主の言葉を守り、守ってくださる主を知っているのでその名を知らないとは言わなかったのです。
自分の貧しさを知っているので、イエス様の与えてくださる天の国を自分のものと出来る(マタイ5:3)のと同じです。信仰とは自分の小ささに気付くこと。信仰の成長とは自分の小ささに目が開かれていくことです。それは神様の偉大さ、救いのすばらしさに目が開かれることと比例しています。
逆にサタンは自分の力におぼれさせます。自分の力で人を愛せると思わせ、自分がひとかどの人であるように思わせます。そこに落とし穴があるのですが。