説教


2011/07/31 「あなたはどこにいるのか」  
聖書:創世記 3章1〜24節   説教:
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。
それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。
「何ということをしたのか。」
女は答えた。
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
主なる神は、蛇に向かって言われた。
「このようなことをしたお前は
あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」
神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
お前は、苦しんで子を産む。
お前は男を求め
彼はお前を支配する。」
神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して
土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。」

アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
主なる神は言われた。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
  人は、食べて、着て、住む処があれば生きられるものでありません。愛し愛され、支え支えられる人格的な交わりの中で、初めて人は人として生きられます。  
 この交わりを破壊するのが、悪であり罪です。(これを修復するのが愛であり赦しです。なぜ他の宗教が上辺のことばかり問題にして、この罪と赦しを説かないのか不思議でなりません)

 創世記三章は、私たちの内に巣食う罪のはじめを語っています。へびはもちろん動物の蛇ではありません。音もなく心の隙間に入りこみ、いつのまにか鎌首をもたげて甘言をささやく私たちの心の動きを言っています。 
人は信頼を裏切ることも出来ますが(動物は裏ぎれないのです)、裏切らないで生きることも出来るように造られました。ここに人の自由と尊厳があります。しかし初めの人が誘惑に負けて罪に染まりました。以来、人に赤い血が流れているように罪が生来のものとなり、信じあえず、利用しあい憎しみあって、不安と孤独に生きる者となったのです。
 聖書はなぜ「原罪」を語るのでしょうか。それは「だれもが自分には罪がないと言い逃れが出来ないため、そしてまた、だれもが神の遣わされたキリストの赦しに与るため」なのです。

私たちは信仰とは私が神様を探し、求めるものだと考えています。聖書の信仰は違います。神様が、「あなたはどこにいるのか」と探してくださっているのです。

2011/07/24 「知られているわたし」   
聖書:ヨハネによる福音書 1章43〜51節    説教:
その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
   フィリポはナタナエルにイエス様を紹介します。つれてこられたフィリポを見てイエス様ないいました。「見なさい、まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」 驚くナタナエルにイエス様は更に「わたしは、あなたがフィリポから話かけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われました。ナタナエルがイエス様を知る前に、彼はイエス様からその本質が知られていたのです。
 イスラエルの民は、いちじくの木の下で祈ります。祈る人に偽りはありません。聖書で正しい、偽りは、道徳的な意味以上に神様との関係です。ナタナエルに罪や失敗がないのではなく、上辺を飾ったり、ポーズをとったり、人の歓心を買ったりはしないのです。隠れたところで、隠れたことを見ておられる神様の前に立ちます。で
すから、祈る人には偽りがないのです。

 何を祈ったのかはわかりません。イスラエルの救いでしょうか、誰もがもっている人生の苦しみや悩みでしょうか。祈れる人は幸いです。しかし更に幸いなのは、祈る人が知られていることです。本当に辛(つら)いことは
苦しいことがあることではなく、自分の苦しさが知られず、辛さを分かち合える人をもたないことです。その方が必死でこらえ頑張り続ける辛さを知りたいと思います。苦しむ人への慰めは、励ますこといじょうにシンパシー(共感)なのでしょう。
 イエス様はその辛さや祈りを知って下さり、祈りによる新しい世界を見せてくださいます。

2011/07/17 「来て、見なさい」  
聖書:ヨハネによる福音書 1章35〜51節   説教:
その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
 
その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
   バプテスマのヨハネは人々にイエス様を指示し、二人の弟子をイエス様に託しました。アンデレとたぶんヨハネでしょう。アンデレは自分の兄弟ペトロをイエス様のところへつれて行き、さらにベトサイダ出身のアンデレたちは同じ町出身のフィリポを、フィリポはカナ出身のナタナエルをイエス様に紹介しました。

35節以下には、「見なさい」「来てみなさい」を意味する言葉が35回も使用されています。信仰は知性を否定しませんが、知性で理解することが信仰ではありません。神様の事実を見てそれに触れることなのです。

 「見る」ことは、出会いでもあります。私たちは伴侶と出会い、書物、友人とも出会い、人生をゆたかにされました。
さらにイエス様にス様と出会えたことはなんと大きな出来事でしょう。イエス様によって、考えてもいなかった愛と赦しを知りました。義しさと清さに目が開かれました。
 イエス様に出会うことは、実は自分に出会うことです。イエス様の愛を知って自分の偽善を知ります。イエス様の義は自分の不実を明らかにします。言い訳ばかりして、人の評価を求めて、恥じ入るばかりです。
 しかしここから真のイエス様との出会いが始まります。イエス様は、その私をそのまま赦して受け入れて下さいました。使命を与え、更に大きなことを見せてくださるのです。

 イエス様を知った人は、今度は「来て、見なさい」と語る者にさせられます。信仰は押しつけることも、教えることも、譲ることも出来ません。その人とイエス様との出会いです。私たちは「来て、見なさい」と語ることしか出来ず、それで十分なのです。


2011/07/10 「教会はなぜ罪を問題とするのか」   
聖書:ヨハネによる福音書 1章29〜34節   説教:
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」    ヨハネはイエス様を「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と指し続けます。イエス様は「過ぎ越しの小羊」(出エジプト記12章)であると共に、「苦難の僕」としての神の小羊(イザヤ書53章)でもあられます。私たちが罪の奴隷の家から導き出され、罪赦されるためにはどうしても小羊が必要なのです。人が生きるためには、家族や隣人がわたしの汚れを洗い、破れを繕ってくれることが必要で、神の御子イエス様がその小羊となって下さいました。        

人が生きる上では様々なことが必要です。無病息災、家内安全、商売繁盛は大切な願いですが、教会の教えの前面には出てきません。生きがいは物にあるのではなく、関係の中にあるのです。
無病息災、家内安全、商売繁盛でも、そこに罪がからむとそれらはたちまち崩壊してしまいます。罪と悪は人との関係を破壊し、愛と赦しはそれを修復します。それで教会は罪を問題にし、罪の赦しを説き続けます。

バプテスマのヨハネは、世の罪を取り除くイエス様を指し続けました。
イエス様の赦しの中で生きるのです。他人を裁き、自分を罰するのでなくその方の愛と赦しの中で肩の力を抜いて生きるのです。

2011/07/03 「私は救い主ではない」  
聖書:ヨハネによる福音書 1章19〜28節   説教:
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
  ユダヤ人指導者たちはバプテスマのヨハネのもとに人を遣わしてその活動を調査しました。「あなたはどなたですか」と強く詰問したことでしょう。
ヨハネは公言して隠さず「私はメシヤではない」と言い表した。これは会話としては変です。「あなたは誰か」と問われれば、普通は○○ですと答えます。それを「私はメシヤではない」と答えたのです。当時、ヨハネは、あるいはメシヤではないかという期待が人々の中にありましたし、ユダヤ人指導者もそれを調べにきたのでした。そのような雰囲気の中での会話なのです。ヨハネは、自分は人々を救う事も、自分を救う事も出来るメシヤではないとはっきりと否定しました。
ヨハネは自分を、皆のよく知っているイザヤの預言から「『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声である」と言いました。王様(メシヤ)が来るとき、荒れ野に道を造り、狭い道を広くし、谷を埋め、山を削って迎える準備をせよと先触れが来て触れ回ります。自分はそれだと言うのです。
「あなたはどなたですか」という問いとヨハネの答えは、ヨハネにとって大きな試みでした。自分にしていることとその結果の大きな広がり。ヨハネにはふと心によぎるものはなかったでしょうか。世の中には自分のしたことで自分こそ世直しをし、国を導くものだと考える人が多くいます。
ヨハネは自分はメシヤではないと断言します。それはメシヤのために心の王座を空けていると言う事です。私たちは自分がメシヤだとは考えません。それなら心の王座にイエス様をお迎えしていますか。でないといつの間にか自分がメシヤになってしまいます