説教


2011/08/28 「あなたの兄弟はどこにいるのか」  
聖書:創世記 4章1〜16節     説教:
さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
主はカインに言われた。
「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
主はカインに言われた。
「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

   人が罪に毒された結果のはじめの悲劇は、カインの弟殺しでした。
アベルの捧げ物が神様に受け入れられ、カインの物が受け入れられなかったからです。なぜ受け入れられなかったのか、様々な原因をあげていますが(へブル11:4,1ヨハネ3:12)、創世記の記述からは理由は解りません。人生には理由の解らないことはいくらでもあるのです。
カインは罪を治めなければなりませんでしたが、罪に身を委ねてしまったのでした。その結果彼は地の放浪者となり、エデンの園(喜びの意)からエデンの東ノド(さすらいの意)に住むことになりました。これは象徴的です。罪に身を任せた者は、神様から離れ、人との交わりが絶たれ、動揺とさすらいの中に住む者となるのです。

 兄弟の間には他人の入れない喜びがあります(詩133篇)。しかしまた、兄 弟の間にしかない醜さもあります(ヤコブとエサウ、ヨセフと10人の異母のノ間がそうです)。

 神様は「おまえの兄弟アベルはどこにいるのか」と問われます。この問いは、カインの罪を問い糾すものでもありますが、同時に兄弟を捜すことを求める神様の呼び掛けでもあります。「私は弟の番人でしょうか」と開き直り、不安と動揺の地に住む私たちに、神様はイエス様によって私たちの番人(隣人)となってくださいました。

私たちは切っても切れない関係の中で生きています。ですから私に少しの配慮や優しさがあればその関係はもっと麗しく深い関係になり、少しの理解やいたわりがないと、他人以上に傷つけあう関係になるのです。

2011/08/21 「人間の心の中にあるもの」  
聖書:ヨハネによる福音書 2章23〜25節   説教:
イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

  「イエスの…なさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは…何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたからである」

 しるしを見てイエス様を信じることには一種の危うさがあります。例えば、パンの奇跡に与った人々は、イエス様を捕らえて王様にしようとしました。その人々にイエス様は言われます。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と。人々が愛したのはイエス様御自身ではなく、パンを与えてくれるイエス様なのです。
それは欲望の満足であって信仰ではありません。
 信仰は愛し愛され、配慮されてこちらもそれに応える、そういう人格的な関係です。イエス様とその関係に入ることです。利用するだけの関係には、深い喜びも生きがいもありません。
 私たちはいつも自分中心です。最後は自分の都合が優先します。そんな私たちに「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が永遠の命をえ得るためである」とイエス様は宣言します。
 このお言葉を手がかりにもう一度私たちの心の中を見なおしませんか。

2011/08/14 「神様と出会うところ」  
聖書:ヨハネによる福音書 2章13〜22節   説教:
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。    ヨハネ福音書はイエス様の公生涯の初めに神殿を潔められたと記します。縄で
鞭を作り、牛や羊を追いだし、両替人の台を反されます。イエス様の目には、神
殿の庭が「商売の家」と写ったのでしょう。神様を食い物にしてはいけないし、
信仰を自分の便宜や方便とすることはお許しにならなかったのです。信仰は、神
様を崇めることであって、神様を利用することではないのです。

 もしそこに神様がおられるならこれでいいのか、どういう礼拝をすることが神
様を礼拝するにふさわしいことなのか。宮潔めをなさったらどうなるか、それに
よって命を失うことがわかった上でされたことでした。イエス様のなさったこと
は神殿を商売の家にしてしまったことの指摘以上に、もっと根本的な、神殿礼拝
そのものの否定と、真の礼拝の確立なのです。

 イエス様はご自分の十字架の死と復活によって、私たちが神様と会う場所を造
ってくださいました。「キリストの体」である教会によって、罪赦され、生きる
希望が与えられ、神様を心から喜び、讃美する道を開いてくださったのです。
 私たちの礼拝は、神様を崇めるのにふさわしいものでしょうか。


2011/08/07 「神の栄光の現われるとき」  
聖書:ヨハネによる福音書 2章1〜12節    説教:
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。
  今日の個所の「三日目に」とは、バプテスマのヨハネがイエス様を証した日から数えてのことで、七日目のことです。創世記の「初めに神は天と地を創造され」祝福のうちに七日目を迎えられたこと,それを受けての「初めに言があった」言が肉となって私たちのうちに宿られ、それが証しされての七日目です。イエス様の来臨によって、結婚であらわされる喜びと祝福が私たちを覆っているのです。

人生は思いがけないことの連続です。何年もかけて準備し、万全を期したはずの結婚式の葡萄酒が不足してしまうのです。やっとローンを組んでマイホームを手に入れたとたん、大震災にあい、残ったのはローンだけというぞっとする話は他人事とは思えません。計算外の出来事が人生にはそこここにあるのです。
窮状をマリヤはイエス様に訴えますが、イエス様はつれない返事をします。「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」願望を押しつけることが祈りではありませんし、事が成るには時があるのです。
イエス様はマリヤ(人)の願いを断固拒否してそれに応え、求めを断ち切りながら、考えられない仕方で求めに応じてくださるのです。
 ヨハネは奇跡を「しるし」と言います。神様がそこにおられるしるしです。「栄光を現わす」も、そこで神様が神様として崇められることです。

 神様の祝福の中にある私たちの人生。その中でぞっとするような人生の伏兵は、イエス様にあってそれに向かうとき、それは神様が神様として崇められる栄光の現われる時となるのです。