説教


2011/09/25 「神と共に歩む」  
聖書:創世記 5章1〜32節   説教:
これはアダムの系図の書である。
神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。
アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。アダムは九百三十年生き、そして死んだ。
セトは百五歳になったとき、エノシュをもうけた。
セトは、エノシュが生まれた後八百七年生きて、息子や娘をもうけた。セトは九百十二年生き、そして死んだ。
エノシュは九十歳になったとき、ケナンをもうけた。エノシュは、ケナンが生まれた後八百十五年生きて、息子や娘をもうけた。エノシュは九百五年生き、そして死んだ。
ケナンは七十歳になったとき、マハラルエルをもうけた。ケナンは、マハラルエルが生まれた後八百四十年生きて、息子や娘をもうけた。ケナンは九百十年生き、そして死んだ。
マハラルエルは六十五歳になったとき、イエレドをもうけた。マハラルエルは、イエレドが生まれた後八百三十年生きて、息子や娘をもうけた。マハラルエルは八百九十五年生き、そして死んだ。
イエレドは百六十二歳になったとき、エノクをもうけた。イエレドは、エノクが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。イエレドは九百六十二年生き、そして死んだ。
エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
メトシェラは百八十七歳になったとき、レメクをもうけた。メトシェラは、レメクが生まれた後七百八十二年生きて、息子や娘をもうけた。メトシェラは九百六十九年生き、そして死んだ。
レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。レメクは、ノアが生まれた後五百九十五年生きて、息子や娘をもうけた。レメクは七百七十七年生き、そして死んだ。
ノアは五百歳になったとき、セム、ハム、ヤフェトをもうけた。
  創世記5章にはアダムからノアまでの十世代の系図が記されています。真面目に聖書と取り組もうと思う者にとってこの系図は戸惑いです。一番短命なエノクでも365年生き、メトシェラにいたっては969年生きたというのですから。そのためにいろいろな解釈があります。しかし本当のところはわかりません。
この記事を私たちの理屈に合わせようとするのではなく、このような表現で聖書が何を言おうとするかを聞くことが大切です。
 
この記事は人の死を語ります。人はどんなに長く生きても死ぬのです。人に罪が入った結果、罪は弟殺しという形をとり(4章)、人は死ぬものとなりました(5章)。
 
人は「子をもうけ、生き、死ぬ」のです。聖書は人をわずか3行であらわし、これが5章で人の系図を記す定式です。人生には様々なことがあっても、不要な部分を削ぎとると、結局人には「子をもうけ、生き、死ぬ」しか残らないのです。ここに冷徹なまでの聖書の人への評価があります。

 「墓標」の中に光ったものがあります。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」です。神と共なる人生は光ります。人は神(永遠なるもの)に結びついて初めて人として生きられます。

 エノクが神と共に歩めたのは幸いでした。しかし、新約聖書は宣言します。「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」。これが福音です。

2011/09/18 「救いの下での謙遜」  
聖書:ヨハネによる福音書 3章22〜36節   説教:
その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
  「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」
 これはバプテスマのヨハネの言葉ですが、なんといさぎよい言葉でしょう。

ヨハネが洗礼を授けたイエス様の一団が、ヨハネ以上に人々を集めて洗礼運動をつづけていることについて弟子がヨハネに問うた時、ヨハネの答えは上記の言葉で、意表を突くものでした。
 ヨハネに、妬みやそれが定めだといった悲壮感はありません。イエス様が天からの方であることを知り、イエス様が花婿であると見抜き、自分を花婿の介添え人と呼びます。自分の役割を知っていたのです。

「上にいます方はすべての者の上にある。…この方は見たこと、聞いたことを証しされる。」自分とイエス様は天と地ほど違うといいます。
イエス様は急所を突くお答えをくださいます。肉体の弱さからくる罪にうち震える女に「わたしもあなたを罰しない」と言われて十字架で罪の身代わりとなり、考えられない苦しみは神様の栄光の現われるためと教え、死の不安におびえる私たちに天の住まいを示してくださいました。

 ヨハネは神様の前での自分を知っていました。ヨハネは自分を誇りません。誇りのない人はいません。問題は何を誇るかです。誇りがあるか無いかではなく、自分を誇るのか、それとも神様を誇るのかです(エレミヤ9:22−23)。
 ヨハネは、自分を誇らない以上にイエス様に打たれていたのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」これを語るキリストの証人は、このヨハネの立場にたたなければイエス様の救いの証しは出来ません。

2011/09/11 「神の愛に生きる」  
聖書:ヨハネによる福音書 3章16〜21節   説教:
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」   「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである」

『この言葉は、聖書の縮図、小さな聖書である』ルター 『これは新約聖書の富士山である』新島 襄

 私たちはどのような「神」を信じているのでしょうか。父なる神様が自分の一番大切な独り子を、罪があり、少しも可愛くない、自分に逆らう人を救うために犠牲にして下さった神様です。
 
「信じる」とは、知的な承認とはちがいます。誰を信じるかがわからなければ信じられませんが、わかったら信じられるものでもありません。「信じる」とは、愛の火の玉となって来て下さった神様への服従であり、信頼です。自分の中に神様を取り込むことではなく、神様の渾身の愛に身を任せることです。
 
「永遠の命」とは、いつまでも続く命ではなく、神様に結びつく命です。時間はいくら延ばしても永遠ではありません。長さではなく質の違いです。
滅び(本来の生き方が出来ずに自分を見失っていること)の中にいた私たちが、神様の愛に目が開かれて自分を取り戻し、生きていてよかったとしみじみ味わえ、苦しいことがあっても生き生きと地上の生涯を送り、死をもってしても終わらない神様との関係に生かされることです。
 
 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子を信じないからである」
全ての人を包み込む愛を説いた後裁きを語るのは少し奇異に感じますが、実はこれがさらに神様の愛を語るのです。
裁きは二つあります。未来の裁きはよく知っています。イエス様が「かしこより来たりて生けるものと死ねる者とを審き給わん」と私たちは毎週告白しています。もう一つ、ヨハネは未来の裁きを現在に前倒ししています。イエス様の愛に身を委ねないで、不機嫌で憎しみと恨みや愚痴の中に生きること、それがさばきなのです。

2011/09/04 「新しく生まれる」  
聖書:ヨハネによる福音書 3章1〜15節   説教:
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。   ファリサイ派に属し最高法院の議員であるニコデモが、イエス様を訪ねました。この世のあり方を憂いたのでしょうか、人生の解きがたい謎について問うたのでしょうか、神のラビならどう考えますかというのです。         

イエス様は言われました。「人は新たに生まれなければ神の国(神の支配)を見ることは出来ない」と。イエス様はニコデモを見て、救いについての基本的な問題を見抜いて言われました。自分の中に神様の教えを取り込むのではなく、神様の支配に自分を委ねよと言われるのです。
イエス様は、ニコデモに信仰の秘儀を語られます。信仰とは信頼だ、と。それを三つの例をあげてねんごろに教えます。             

「誰でも水(水によるバプテスマー古い私が死ぬこと)と霊(神様の導き)とによって生まれなければ神の国に入る(生きる)ことはできない」と。そうでなければ、いくら生まれ直しても自分中心のままなのです。          

「風(神の息、霊)は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いてもそれがどこから来てどこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もその通りである」と。人は風(霊)の流れを見ることも造り出すことは出来ず、しかし確かに吹いている神様の自由な働き(霊)に身を委ねることが救いなのだと。
 
「(かつてイスラエルの民が罪を犯して蛇に噛まれ、そこから救われるために)モーセが荒れ野で蛇を上げ(それを見て救われ)たように、人の子も(イエス様も人の罪のゆえに十字架に)上げられねばならない。それはイエス様の救いの業を見上げ信頼して永遠の命を得るためである」と。