説教


2011/10/30 「ノアの箱舟」     
 聖書:創世記 8章 13〜22節    説教: 
 ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。
第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた。
神はノアに仰せになった。
「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」
そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。 獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。
主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない。」
   「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められ、… 言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。 人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。…』」(6・5−7)

 人は神様も、神様の罰も認めず、ただ人の目に写る恥だけを気にして生きています。しかし、不法は必ず罰せられます。悪は報いを受け、罪は返さなければならない「負い目」(マタイ6:10) なのです。これがはっきりしなければイエス様の十字架もはっきりしません。これがノアの洪水の語る第一の主題です。
 
「その世代の中でノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」
聖書では義人、悪人とは道徳的なことではなく神様との関係です。ノアは失敗のない清浄無垢な人というのでなく、神様と共に歩み、その生き方が神様との関係で正しいということです。

「人に対し地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」(8・21)
洪水の後、神様はこう決心されました。洪水の前とは神様の御心が全く違います。罪を罰しないのではありません。罪を罰する仕方でその義を現すことはしまいと決心されたのです。罪あるものを罰するのでなく、ついには自ら罪ある者のために代わって打たれること(神の独り子イエス様)で義を現すこととされたのです。これが福音です。
この記事もイエス様を指し示しています。そして箱舟は教会です。

 2011/10/23 「霊と真理による礼拝」    
 聖書:ヨハネによる福音書 4章 16〜30節、
                      39〜42節
   説教:
 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。


さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
  女はイエス様との会話ですっかり変わりました。

 「神は霊である。だから、神を礼拝する者も霊と真理をもって礼拝をしなければならない。」この言葉は、全身全霊をもって礼拝せよとか、誠心誠意神様を礼拝せよといった私たちの礼拝の姿勢のことではありません。

神様は「霊」そのものであられ、聖霊として私たちに働き掛けてくださいます。神様の備えと導きの中で礼拝する。私たちは聖霊の導きがなければ、神様のことも、自分のことも分かりません。

「真理」とはイエス様が明らかにして下さった真理です。私たちも真理を持っています。それは因果応報の真理です。女が苦しむのは、自分の蒔いたものを刈り取って苦しむのであってそれは当然と言う真理です。しかし、イエス様は違います。女が苦しむ姿が居たたまれないのです。イエス様は自らが痛んで女を受け入れます。プラスマイナスの帳尻が合うのは義の真理、人をたたせるのは愛の真理です。女はこのイエス様の愛の真理に目が開かれたのです。

女は隠しておきたい自分の過去をさらけだしてイエス様を人々に証します。女の変化に人々はイエス様の許に来て教えを請いに来ました。

 サマリヤの人々はもう二日間イエス様に滞在していただき、告白します。信仰は譲り受けたり教え込まれて分かるものではありません。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に救い主であると分かったからである」なのです。
 

  2011/10/16 何が人をたくましく生かすか  《特別礼拝》 
聖書:コリントの信徒への手紙二 13章8節   説教: 
わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。(口語訳)   

 人がたくましく生きるためには、真理に立つ以外ありません。

聖書は「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理に従えば力がある」と記しています。硝酸と硫酸が正しく調合されると岩をも穿つダイナマイトの原料ができます。しかし、正しく調合されなければなんの力もありません。

それは自然科学だけでなくこの社会にも人生にもあてはまります。じんせいの場合、真理に立たなければその結果を刈り取るのです。私たちは時に身の不幸を嘆きますが、自分に偽り、おごり、甘えがなかったか、自分が蒔いたものを刈り取ったかもしれないことを振り返る必要があります。

しかし、因果応報の教えは間違いではありませんが、身に覚えのない「謎の偶然」など、因果律だけでは説明しきれませんし、別の真理が必要です。

 イエス様は生まれながらの盲人を前に言われました。「(この人が生まれつき目が見えないのは)本人が罪を犯したのでもなく…神の業がこの人に現れるためである」と。

 イエス様によって、私たちを覆っているのは恐ろしい運命でも暗闇でもなく、神様の愛であることが告知されました。私たちはその愛の中に置かれているので、その不幸と思えることを通して神様が何を見せてくださるかを期待して生きなさいと言われるのです。

 人生は、義の真理に立つことと、愛の真理に生きることが、人をたくましく生かすのです


 2011/10/09 「水がめをそこに置いて」    
 聖書: ヨハネによる福音書 4章27〜38節   説教: 
ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
   人は食べなければ生きられませんが、生きることは何のために生きるのかと結びついています。イエス様は、食べることは神様のお心を行ないその業を成し遂げることでした。
 イエス様にとって神様の御心とは、十字架にかかって人々を神様に結びつけることですが、もう一歩踏み込んで言えば、それによって人々が神様に真実な礼拝を捧げることなのです(それこそが永遠の生命なのです)。
 女は、自分の本当の生き方はもっと別のところにあると思い、自分の欲望も手伝って異性に走ったのでした。女はイエス様によって自分の問題と、神様に目が開かれました。女は神様を求めてだしましたが、女以上に神様も「このように礼拝するものを求めておられる」のです。
 欲望のためでしょうか、不慮の事故や現状への不満のためでしょうか、みな自分を見失っています。呪っても恨んでも人生は拓けません。イエス様によって、私の全てを知り受けとめて下さっていた神様を知ることが、本当の自分に出会うことなのです。神様を知ることは自分を知ることです。救いを知ることは自分の尊さが分かることです。大事な水瓶をそこに置いて、町に飛んで帰る喜びがそこにあります。

2011/10/02 「渇きをいやす生きた水」  
聖書: ヨハネによる福音書 4章1〜26節   説教:
さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
  会話のきっかけはイエス様が渇きを覚えてサマリヤの女に水を求めたことでした。この箇所のキイワードは「渇き」です。会話ははずみ、女は町の人と顔を会わせたくないので、「ここに水を汲みにこないでもよいように」と、イエス様に「生きた(泉の)水」を求めたのでした。
 イエス様はそんな女の問題をズバリと指摘し「あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われます。「夫はいません」「五人の夫がいたが、今つれ添っているのは夫ではない」こんな会話が続きます。信仰への最大の準備は、知識ではなく、良心の問題です。
 女は満たされない思からか、或いは何処かに自分の本当の生き方があるはずと考えてか、そして自分の欲望にも駆られて異性を求め続けたのです。その人はまた渇き渇きはさらに刺激を求めいやされることはありません。
 自我の塊まりになって自分を押しつけるか、自分の中に取り込むことばかりの私たちは、私たちを丸ごと受け入れてくださっているのです。その神様に出会うまでは癒されないのです(アウグスティヌス)。   
 イエス様によって神様に出会い、神様と結びつく礼拝以外ないのです。