説教


 2011/11/27 心の不通の原因と対策    
 聖書:創世記 11章1−9節   説教:  
 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

  人々は石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを手に入れました。その技術と文明を用いて「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散ることが無いようにしよう」と言い、それを実行しました。
 
文明が悪いのではありません。技術の発達は人を繁栄と便利な生活へ導きます。それが塔のある町を建てることを可能にし、人々は嬉々としてその作業をしたに違いありません。共通の目標は人を一つにします。
 しかし、時をかけても塔は完成せず、言葉は通じなくなり、ついに人々は散りぢりになってしまいました。聖書には神様がそうしたように書かれていますが、それは人の自業自得なのです。技術の故に自分を誇り、自分を絶対化した時、隣人との言葉が通じなくなります。言葉が聞こえないのでも理解出来ないのでもありません。自分中心が言葉を通じなくさせているのです。
思いの通じない相手の心は変えられません。それなら自分の気持ちは変えられると思うのは幻想です。一度煮え湯を飲まされた相手への自分の思いは変えられるはずはないのです。

 聖霊が下った時(使徒言行録2章)、全世界の言葉が通じだしました。私の罪が示され、私が神様の赦しと愛の中に置かれていることを知らされる時、赦すのでなく赦されていることを知らされる時、言葉は通じ合うのです。
この赦しと愛に生きていますか。

 

2011/11/20 恵みに立ち続ける   
 聖書:ヨハネによる福音書 5章1〜18節    説教: 
その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>
彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。
さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
その日は安息日であった。
そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねたしかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
  この池には時たま天使が降り、一番最初に池に入った者はどんな病気でも癒されるとの言い伝えがあり、様々な病気で苦しむ者が集まっていました。この場所はベトザタ(恵みの家)と呼ばれていても、実態は違います。元気な者が我れ先きに飛び込み、弱った者、家族の介護のない者はいつもその恵みに与れなかったのです。
 
この人は38年間病気で苦しんでいたというのですから、ただ事ではありません。彼はいつの間にか人をうらみ、治す意欲を失い、自分の窮状を強調することで自己憐愍に閉じこもり、病気に甘えて、そこに居着いてしまったのです。「私は私の苦悩に相応しくなるという事だけを恐れた」(ドフトエフスキー)と言いますが、その言葉通りになってしまったのです。 
 
そんな彼にイエス様は「良くなりたいか」と言われて本人の隠れていた思いを引き出し、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と神の業がその身に現わされたことを自覚させるために命じました。彼は床を担いで歩きだしたのです。神様の働きを祝う祭りとも、神様の業を讃美する安息日とも無縁だった彼が、もう一度神様に結び付けられたのです。

 「信仰というものは、私たちがこれこそ信仰だと思う信念や思想ではなく、私たちの中における神様の業である」(ルター)
 神様が、どのような仕方であっても私の人生に関わって下さっていることに気づく。そして、私たちはそこに立ち続けるのです。それが信仰生活」です




 

2011/11/13 「信仰の三段階」   
聖書:ヨハネによる福音書 4章43〜54節    説教: 
二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

   イエス様は人々に「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われました。瀕死の子を持つ役人は、手がかりになる物は何もない中で「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とのイエスの言葉を信じて帰って行ったのでした。彼がイエス様のお言葉に従って一歩を踏み出すと、そこから神様の業が始まりました。ヨハネによる福音書1章〜4章は「見ること」と「信じること」の関係を追及しています。ヨハネによる福音書全体がそれを問うているといっても過言でありません。

 しるしを見て信じる信仰には、おちいりやすい二つの危険があります。
「取込の信仰」 イエス様のしるしを見て私達は自分の中に取り込みたいと思います。しかし信仰は、自分を神様の恵みにゆだねることであって、都合のよいところだけをイエス様から取り込むことではありません(ヨハネ6章14-15節)。「瀬踏みの信仰」 イエス様を信じるにあたっては、信じるに足るかどうか、自分の眼鏡に適っているかどうか、瀬踏みをします。この二つは、結局自分中心で、神様との人格的な関係には入れません。

神様が、イエス様にあってこの世界を愛をもって支配して下さっていること、それをまず信頼すること。次にそれを信じて一歩を踏み出すこと。するとしるしは後からついてくるのです。
 この原理は信仰の歩みにすべて当てはまります。罪の赦し、罪に打ち勝つ道、聖霊の賜物である平安、信仰に関わるすべてはこの順序で私たちのものとなり、その逆ではないのです。
 

2011/11/06 「死についての知識」(永眠者記念礼拝) 
聖書:テサロニケの信徒への手紙一 4章13〜18節   説教:
兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。


   人にとって死が死であるのは、罪が染み付いているからです。罪の牙がなければ死はもと違った様相をもちます。イエス様は十字架で罪の身代わりとなって私たちを神様に結びつけて、甦えられ私たちを同じように甦らせてくださいます。イエス様の十字架と復活に私たちも張り付いているのです。
イエス様の十字架と復活を信じて洗礼(洗礼は罪の私の死とキリストにある新しい命がこの身に証しされること)を受けた私たちはそれで良いのですが、それを知らない家族も「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒言行録16:31)の約束のもとにあるのです。

死が永遠の別れだとすれば、どんなに泣いても泣き切れません。生きる喜びを少しでも知り、歯を食いしばって生きてきた者にとって死で一切が終わりだとすれば、人生は何と酷なことでしょう。
人は何と言ってもかまいません。私たちはイエス様の十字架と復活を信じイエス様が再び来られるとき、それまで神様の御許で待ち、私たちも再臨に繰り込まれることを信じています。

信仰があっても地上での離別は悲しみです。まして愛する者を失った者はなおさらです。悲しみには二種類あります。望みのある悲しみと、望みのない悲しみです。私たちは望みのある悲しみを悲しみ、イエス様の手の中で涙を流します。イエス様の愛の導きの中で私たちの地上の生涯を送るのです。