説教


2011/12/25 「恵みと真理に満ちた方の誕生」 《クリスマス礼拝》  
聖書: ヨハネによる福音書 1章14〜18節     説教: 
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

  「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

このお言葉は、クリスマスで誕生されたイエス様の本質の姿です。恵みとは与えられるはずのない者への好意であり、真理とは事柄の本質である正しさです。イエス様のうちにはこの二つが結びついています。
恵みは内側に真理をもっていなければ甘さですし、真理は恵みの裏打ちがなければ冷酷です。私たちが生きる上ではこの二つ、恵みと真理(愛と義といってもよいでしょう)を正しく作動させる必要があります。

姦淫の場で捕らえられた女を前に、ファリサイ派の人々は「こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法で命じています。あなたはどうお考えになりますか」とイエス様に詰め寄りました。愛に立つか義に立つかということです。
それを聞くとイエス様はかがんで地面に何かを書いておられましたが、人々が激しく答え求めますので「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げなさいと」と言われました。すると年寄りから始まって一人ひとり群衆は立ち去り、女だけになりました。イエス様は女に「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい、もう罪を犯してはならない」と言葉を掛けられました。イエス様はただ女を赦したのではありません。イエス様は自らが十字架で撃たれ、女の罪を担われ、愛と義を確立されたのです。「十字架のもとぞいと安けし、神の義と愛のあえるところ」(74年版讃美歌261)イエス様に、愛と義が交差し、具現しているのです。
私たちは毎日の生活で、恵みと真理、愛と義の関係で迷います。それは愛の姿をとって甘えさせているのか、義の名を借りた糾弾か。イエス様を仰ぎ、イエス様ならどうなさるかを問うて答えをいただきます。 

2011/12/18 「神の子となる資格     
聖書: ヨハネによる福音書 1章6〜13節    説教: 
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 
   「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人々には神の子となる資格を与えた。」
  
新聞を読むのが怖いほどの闇がこの世を覆っています。銃声は鳴り止まず、凶悪な犯罪が日常化し、個人の生活にも様々な暗い影が忍び寄っています。そんな私たちのところに「言(ことば)」としてのイエス様は来て下さいました。
しかし、人々は「言(ことば)」を認めず、受け入れません。受け入れたくないのです。今は暗闇の中にいるのに、転向を求められるのが嫌なのです。苦しい変革よりも、今の安逸を好むのです。
ヘロデ王は、ユダヤ人の王として生まれたというイエス様の誕生の報に不安を覚え、エルサレムの住民も同様でした。自分が持っているものを取り去られることの不安です。人は取り込む事はしますが、一度手に入れたものは時間でもお金でも自由でも奪われることを断固拒否します。利用するのはいいのですが、利用されるのは嫌なのです。結局自分がいつでも王様でいたいのです。
しかし光を受け入れる者もいます。受け入れるとは、キリストの生き方を自分の内に取り込むということではありません。キリストに身を委ねることです。何故光に身を委ねられないのでしょうか。結局、自分を守るのは自分だという思いがあり、不安はそれが不可能なことを感じての結果なのです。自分以上に自分を配慮して下さっている方、その方に人生を委ねるのです。

信仰が、キリストを信じるというだけなら自分の気休めに過ぎません。自分がそう信じているというだけなら独りよがりかもしれません。神様も、信じる者に神の子となる資格を与えてそれを保証して下さっているのです。ここに信仰が信念や気の持ちようでない確かさがあります。 

2011/12/11 「初めに言(ことば)があった     
聖書: ヨハネによる福音書 1章1〜5節    説教: 
 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。   「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

「初め」とは、時間的な初めも言いますが、起源、根本という意味での初めでもあります。「言(ことば)」とは、ロゴスで、もちろん言葉ですが、単なるコミュニケーションの手段ではなくではなく、法則、原理、根拠といった意味もあります。世界の初め、根源には神が世を愛するという決意あったのです。
ロゴスという言葉で表わされているイエス様は、神様と同質で、神様そのものなのですが、それでも神様と区別されるためにこのように記されています。
このヨハネ福音書の書き出しは、創世記を思い出させます。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり…」 
創世記がまとめられたのは、国が破れ、イスラエルの民がバビロンに捕虜として連れていかれた時でした。明日に少しの希望もない、混沌と闇が地を覆っていた時でした。
ヨハネ福音書がまとめられたもの、90年代のドミチィアヌス帝が組織的にクリスチャンを迫害しだした時でした。これから先について暗闇が覆っているのです。しかし、私たちは決して恐ろしい運命や宿命のもとにあるのではありません。初めに言があったのであって、混沌ではありません。

信仰は暗い現実から神を見ることではなく、神の支配から現実を見ることです。 

2011/12/4 「生きていてよかった命を得る  
聖書: ヨハネによる福音書 5章19〜30節   説教:
そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
  この人は38年間病気で苦しんでいたというのですから、ただ事ではありません。自分の人生は何だったのか、病むために生まれてきたのかと何度自問自答したことでしょう。
 そこにイエス様が来て、彼を起き上がらせ、自分の足で立たされました。38年の病気が癒されたのはきっかけです。神様の恵みがその人を覆い、その人生に神様が関わって下さっていたことに気付くこと、これが救いなのです。

 「救い」をヨハネ福音書では「永遠の生命を得る」と言います。それはいつまでも続く生命(時間はいくら延ばしても永遠ではありません)ではなく、永遠なる神様に結びつく生命です。生きていて良かったという生命です。

 イエス様を信じている者も、病気をし、時には失敗もし、年を取り、やがて葬られます。それでも生命へと復活するのです。神様に結びついているからです。私たちは、地上では神様の愛を信じてその歩みを導かれ、その先も永遠なる神様の御手の中にあることを知っています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、…わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8章30節)という命に生きているのです。