2012/1/29 「行く先を知らないで」    
 聖書:創世記 12章1〜9節   説教: 
 主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」

アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。 アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。 アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。

主はアブラムに現れて、言われた。
「あなたの子孫にこの土地を与える。」
アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。

アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。
  「あなたは生れ故郷、父の家を離れて、わたしの示す地に行きなさい」(創世記12:1)


「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出ていくように召しだされると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのです」(ヘブライ11:8)                                


だれもが自分を知り自分も皆を知っている生れ故郷、そこに生活の基盤がある安定した父の家。そこを離れ、行く先を知らずに神様の示す地へ出ていったアブラハム。 そこには信仰の決断がありました。決断は信仰の冒険であり、信仰による勇気が必要です。アブラハムは行く先を知らないで出発しますが、神様のお言葉にかけて、導きを信じてのことでした。


私たちは、アブラハムほどではないとしても、行く先を知らないで出発します。どの学校に入り、どこに就職し、誰と結婚するか、ことを起こす時、何もかもが分かってするのではありません。
その際何を見て決断するのでしょうか。一か八かに掛けたり、漠然とした幸運を信じてのことではありません。信仰者は、アブラハムが見ていたように、この世を愛をもって支配する神様の導きを信じて決断します。(へブライ1::1-3)  


私たちの日常生活にはいつも大きな決断が必要ではありません。しかし小さな選択の中で、時々立ちどまって、神様の御心に応えること、神様のみ手を見て神と人とに愛し仕えることを訓練します。その積み重ねが、大きな決断につながります。 

  2012/1/22 「命のパンを食べる」    
  聖書:ヨハネによる福音書 6章22〜59節   説教: 
 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」     

そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
    与えられたパンを食べてイエス様の後を追う群衆に、イエス様は、「あなたがたがわたしを捜しているのは、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」「わたしは天から降ってきたパンである」と語られました。
 「これはヨセフの息子のイエスではないか。どうして今、『わたしは天から降ってきた』などと言うのか」とつぶやくユダヤ教に固執する人々に、イエス様はさらに言われます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べその血を飲まなければあなたたちのうちに命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」
これを聞いたユダヤ人は混乱し、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言ってイエス様のもとを去ります。

ストレートに読めばユダヤ人の混乱はわからないではありません。これはヨハネによる福音書の聖餐の記事です。聖餐がいつ定められたかは共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に記されていますが、ヨハネによる福音書はその内容を語っています。

私たちは食事を摂って肉体を支えます。食べて生きるのです。それと同じように、聖餐はキリストを食べることです。信仰を持つことは、精神的で知的なことではなく、生々しいことです。聖餐は、考えたり、思索することではありません。キリストを食べることです。
天から降ってきて私たちのために差し出されたキリストの肉と血をいただき、キリストの愛に支えられ、キリストとの命の関係に入っていることを確認する。そして生きのです。
聖餐は、キリストの死に与る洗礼を受けて、皆がこれに与ってほしい秘儀です。

 2012/1/15 「わたしだ、恐れることはない」     
 聖書:ヨハネによる福音書 6章16〜21節   説教: 
夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。
そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。
イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。


(1スタディオン→約185m)
   5つのパンと2匹の魚で、男だけで5,000人の給食をした記事の後、湖でこぎ悩む弟子たちのところへ近づくイエス様の記事があります。この2つの記事はセットなのです。だれが肉体をもち、この社会に生きる私たちの主なのかを語っています。

 パンの給食のあと、弟子たちは向こう岸に向かいますが強い風波で漕ぎ悩み、そこへ湖の上を歩いてイエス様が近付き、「わたしだ、恐れることはない」と言われました。舟は私たち自身や、教会の象徴です。湖は私たちの人生や、この世の象徴です。舟は小さくてもろく、湖はこちらがどんなに注意していても突然荒れるのです。

 私たちが信仰を失う時は、あまりに豊か(情況が順風満帆)であるか、あまりに貧しい(不遇が重なる)かのいずれかです。豊かさが感謝に繋がらずに神様を見失わせ、貧しさが、そんな時だからこそ神様への信頼にならないのです。箴言の著者は「貧しくもなく、金持ちにもせず、私のために定められたパンでわたしを養ってください」(箴言30章)と祈れと勧めます。しかし、今、そのいずれかの現実の中にいる人にはどうしようもありません。 

 信仰のカギは、イエス様が見えているかどうかです。イエス様が見えなくなると自分を見て傲慢になり、周囲を見て不平を言い、恐れます。傲慢や不安や愚痴は吸い取れません。暗さを追いだすには、光を迎え入れる以外にないのです。問題との決別は、自分を超えるもっと大きな肯定の中でできるのです。「わたしだ、恐れることはない」と言って共にいて下さるイエス様を私の中にお迎えするのです。

 

 2012/1/8 「食べて満腹する」    
 聖書:ヨハネによる福音書 6章1〜15節   説教: 
 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
  驚くべき世界がそこに出現しました。すべての福音書がそれを記し、マタイ・マルコはそれを二度も記すほどです。又その素晴らしさは、人々がイエス様を捕らえて王にしようとした程でした。

弟子たち(私たち)の住んでいる世界は、計算の世界です。人数を数え費用を割り出し、計算外の出来事にあわてる世界です。無謀に突っ走るのが信仰ではありません。事実イエス様はルカ福音書14章で塔を建て、戦いに立ち向かう者の心得を語られました。そこでは事柄への冷静な判断と的確な計算が求められています。
しかし、手堅い人の計算だけが信仰ではありません。計算を越える世界が信仰です。一体5つのパンと2匹の日干しの魚で、男だけで5000人にもの人に給食が与えられるのでしょうか。あり得ないことです。しかしそれが信仰の世界です。そして事実それがあるのです。
一体罪ある者が無償で赦され天下晴れて生きられる世界があるでしょうか。イエス様がご自分の肉を裂き血を流してその恵みの世界を開いてくだったことです。
 
「皆は食べて満腹した。」満腹するとは、お腹と共に心も満足したということでしょう。この出来事は聖餐を指示しますが、生きていてよかったという命は、イエス様が肉を裂き血を流された聖餐を覚え、味わうことです。思索することではなくイエス様が行ってくださったそれをこの身に味わい、絶えず確認することです。
 

2012/1/1 「聞きます。お話しください。」  
聖書:ヨハネによる福音書 5章31〜47節    説教:
「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。 あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。 わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
わたしは、人からの誉れは受けない。 しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。 あなたたちは、モーセを信じたのであれば、しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」
  イエス様が38年病気で苦しむ人を癒されたことがきっかけです。
「イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされた」ので、ユダヤ人たちはイエス様を殺そうと狙うようになりました。ユダヤ人からすれば、イエスが神を冒涜したためであり、神様への熱心からイエス様を狙ったのです。そんなユダヤ人に対して「あなたがたが救われるために」と、バプテスマのヨハネの証言、イエス様の業そのもの、旧約聖書の証しをていねいに語り続けられました。
しかし、ユダヤ人たちはイエス様を救い主とは認めようとはしません。結局、自分を決して変えずに、自分が考え願う救いを押し立てるユダヤ人と、イエス様が与えてくださる救いが真っ向からぶつかっているのです。

これはパウロが神様への熱心からイエス様を信じるクリスチャンを迫害したのと同じです。かつてパウロは、自分の義を押し立てて神様からよしとされることだけを願い、それを誇り、それができない人を軽蔑していました。自分を神の子と僭称するイエスは十字架につけられて当然とし、イエスを信じる者を迫害することは神様への熱心と考えていました。救いは自分で獲得するものであって、神様が与えてくださる義(救い)は見えなかったのです。
 
救いは、私がシナリオを描いて神様にそれを押し付けるものではなく、神様の提供してくださっている愛と赦しに飛び込むことです。
「しもべ聞く、主よ語りたまえ」です。それを聞かなかったり、聞きたいように聞くのでなく、語られた通りに聞く、これが神様の与えて下さる救いの基本です。一緒に生きる隣人との関係も同じです。