説教


2012/3/25 「エル・ロイ(顧みられる神)」     
聖書:創世記 16章1〜16節    説教: 
 アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」


アブラムは、サライの願いを聞き入れた。アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。 サライはアブラムに言った。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」


アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」
サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、 主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」


主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」
主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから。 彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので、人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」


ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある。


ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。 ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった
   約束のものを受けるのに必要なのは忍耐です(ヘブライ10:36)。待つこと、耐えることは人生の大切な仕事です。
ところがサラは待てず、小手先の解決を計ろうとしました。ここから悲劇は始まります。16章と21章に記されているハガルとイシュマエルの物語は、サラ達が立つべきところに立たないところから起こった悲劇です。


 子の無いサラに代わって召使ハガルはアブラハムの子をはらみました。自分がみごもったことでサラを見下したハガルは、サラからいじめられ、逃げだします。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」 それが出来ないのでサラのもとを逃げだしたハガルに、天の使いは言います。
 

考えてみれば、主人の所がいづらくなったのは主人だけが原因ではありません。ハガルも問題です。相手も悪いですが、自分にも原因の一端はあるのです。強い者には強い者の悪があり、弱い者には弱い者のみにくさがあります。上の者の我がままと、下の者のずるさがあるのです。 
 苦しくはあっても立つべきところに立つ。したいかしたくないか、得か損かではなく、しなければならないことをしていく。ここに立たなければ本当の問題の解決はありません。それをしなければ問題はもっと混乱します。問題を先送りにすれば倍になって返ってくるのです。


 私たちを顧みていて下さる神様(エル・ロイ)がいるのです。播いたものを刈り取って流す涙を知っていて下さる方がいるのです。間違えてもいいのではありませんし、失敗しないに越したことはありません。でもその辛い涙を知ってくださる方がいるのです。
ですから立つべきところに立ちます。するとそこに泉があるのです。


2012/3/18 「解放」     
聖書:ヨハネによる福音書 7章53節〜8章11節     説教:  
〔人々はおのおの家へ帰って行った。 イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕

  姦淫の現行犯で捕縛された女を皆の真中に立たせ、「こういう女は石で打ち殺せと律法は命じていますが、どう考えますか」とファリサイ派の人々はイエス様に詰め寄ります。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が先ずこの女に石を投げなさい」 最初に石を投げる人は証人です。これを聞くと、年長者から始まって一人ずつ立ち去り、女とイエス様だけが残されました。
 「誰もあなたを罪に定めないのか」「主よ、誰も」「私もあなたを罪に定めない。お帰りなさい。もうこれからは罪を犯してはならない」 違った形での罪は犯すでしょうが、罪の奴隷にならず、罪から自由にされて生きるのです。

 ファリサイ派の人々は女も罪も見ていません。女と女の犯した罪はイエス様を糾弾するための手段だったのです。罪を糾弾する声の前では、この女は、呪い、ふてくされ、うそぶいていたに違いありません。
だれよりも女と女の罪を厳しく見ていたのはイエス様です。罪を罰することの出来るただ一人のお方、罪を身代わりになって神に執成す方の罪の赦し。人は赦しの言葉の前でだけ自分の罪が見えるのです。そこでだけ自分を取り戻せ、新しくされるのです。

 女が差向いでイエス様と出会うことは私たちの信仰の姿です。人は誰でも人には言えない心の片隅を持っています。それを知られたら死んでしまいたいと思うような心の片隅です。人はそこでだけイエス様に出会い、赦しを聞き、整えられるのです。
 イエス様を知ることは自分の救いを知ること、自分の救いを知ることは自分の大切さを知ること 、自分の大切さを知ことは隣人の大切さに目が開かれることです。

2012/3/11 「招きの言葉を前にして」     
聖書:ヨハネによる福音書 7章40〜52節    説教: 
この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。 その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。


さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。 だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」



  「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と仮庵祭でイエス様は招かれ、それに対し四つの反応がありました。

 第一は下役です。彼らはイエス様の捕縛を命じられますが、空手で帰り「今まであの人のように話した人はいません」と復命します。これは業務命令違反ですから自分の職を掛けた言葉です。彼らはイエス様のお言葉を聞いて、自分が変わるかも知れないと思う程打たれたのです。

 第二はニコデモです。かつてイエス様に教えを乞うた彼は、「まず本人から…何をしたかを確かめた上でなければ判決を下してはらないことになっている」と勇気をもって言います。あなたがたはイエス様本気で聞いたのか、偏見や予断はないのか、ということです。

 第三は群衆です。イエス様の言葉に対し、「あの(エジプトから救い出したモーセのような)預言者だ」と反応し、「(ローマの圧政から我々を救ってくれるダビデの再来のような)メシヤだ」と、自分たちの願望をイエス様に投影します。いくら願望を投影しても救いではないのですが。

 第四はファリサイ派の人々、祭司長達です。彼らは、救い主のことは知り、専門家だと自負していました。見えると思うので見えず、知っていると思っているので知らないことがあることに気付かないのです。
 
自分の姿勢や問題を見据えていますか。招きの言葉、恵の光に身を委ねていますか。

2012/3/4 「生命の水を飲む」  
聖書:ヨハネによる福音書 7章37〜39節    説教:
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである

  「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」とイエス様は、仮庵祭で叫ばれました。

仮庵祭は先祖の苦しかった40年の荒野の旅をしのぶ秋の収穫祭です。祭りではシロアムの池に行って水を汲み祭壇に注ぎますが、それは雨乞いの願いをこめてのことでしょう。旅で、そしていつの時代でも、水の不足は深刻な問題です。人々は祭りに酔いしれますが、深いところでは滅びへの不安が隠されています。


イエス様は、「わたしから飲みなさい」と招かれます。死への恐れ、不条理、苦痛と無常、道徳的無力と破れ(罪の問題)、充実した生命への渇き、社会は周りは整えてくれますが、内側のことまでは面倒を見てくれません。その渇きをイエス様によって癒していただくのです。


「わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」
 イスラエルの人にとって水は命そのものです。エゼキエルは、水が川となって神殿から流れ出る様子を回復の時として預言しました(47章)。そしてイエス様は十字架と甦りによってご自身が神殿となって下さり、神殿から水が流れ出るのです。
 イエス様の所にきて「飲む」とは、イエス様を「信じる」ことです。信じるとは、心の王座にイエス様をお迎えし、共に考え、感じ、イエス様の思いを意志して行動すること、イエス様との生命の関係に入ることです。すると、聖霊が内側から私たちを導きます。