説教


2012年4月29日 「本物と模倣」     
聖書:創世記 19章15〜29節     説教:
 
夜が明けるころ、御使いたちはロトをせきたてて言った。「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」
ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」
ロトは言った。「主よ、できません。 あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください。」
主は言われた。「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。 急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから。」
そこで、その町はツォアル(小さい)と名付けられた。
太陽が地上に昇ったとき、ロトはツォアルに着いた。 主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、 これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。
アブラハムは、その朝早く起きて、さきに主と対面した場所へ行き、ソドムとゴモラ、および低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた。
こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。



 
   アブラハムにはイシマエルとロトが影のように一時ついて回りました。ロトは弟ハランの子で、ハランが亡くなって長男のアブラハムが甥のロトを引き取り、その生涯の一時を共にしたのでした。


 人は自分の責任で決断しなければならなくなった時その本質が明らかになります。アブラハムもロトも羊が増えて一緒には住めなくなり、アブラハムから住む場所の選択を迫られたとき、ロトは迷うことなく潤った地を選び取りました(13章)。年老いて子の無い伯父アブラハムへの いたわりは少しもありません。
 ソドムの町の滅亡を前に立退が迫られた時、それを躊躇し、最後まで妻と共にその生活や富に未練を残します。富が悪であったり、貧しさが清いのではありません。ただロトは目先のことだけを見て生きていたのです。 


 小さい時からアブラハムと行動を共にし、その祈りを聞き、決断の仕方も見ていたはずです。しかしロトはそこから何も学んでいません。ロトのしたことは、アブラハムの模倣だったのです。 
 模倣は大切です。何事も初めは模倣から始まります。模倣から学び取り自分のものにしていくのですが(ヨハネ4:42)、ロトにはそれがありません。

 ロトはいつも自分が中心で、計算しかないのです。アブラハムのように心の一番深いところに神様がいないのです。ロトは自分の中に取り入れることはしても自分を委ねることしません。神様に深い信頼がありませんので、突き抜けた喜びもないのです。
 そんな計算だけで人生は生きられるのでしょうか。何もかもを私から奪い取る死を前にして、委ねることを知らなければ一体どうするのでしょうか。   

2012年4月22日 「わたしはある」     
聖書:ヨハネによる福音書 8章21〜30節    説教 
そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。
そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

 
   「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」
 

イエス様は「自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉を、わずか4節の中で3回も口にされます。3回というのは聖書ではよほどのことです。
「これから先どこかまでは落ちていくかは知らないが、時々良心という奴が頭を出してきて、奈落の底へ突き落とされてしまうとささやく。」女をだましては売春婦として外国に売りとばして金を儲けた男の独白です。人はだませても、自分の良心が自分の罪を告発するのです。
 そんなあこぎな事をしなくても、障害のある子を残しては死ぬに死ねないというのであれば、それは自然の情ですが、地上に残る者に必ず道を拓いてくださる方を信じられなければ、それも罪の一つの姿です。


 イエス様は、私たちがそうならないために来てくださいました。
 「わたしはある」とは、「わたしは世の光である」「わたしは命のパンである」の「ある」と同じです。嵐に悩む弟子たちに「わたしである」と顕れて下さったのと同じです。何より、神様がモーセに「わたしはある」(出エジプト3:14)と顕れて下さったのと同じです。
 
 イエス様はここで、あなたがたは呪いの死として私を十字架につける。神様はそれさえ用いて罪の赦しの救いの御業をなさる。「わたしはある」、私は神そのものだ、その私を信じなければあなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると迫って下さっているのです。
この方が信じられませんか。罪の内に生き、死にますか。


2012年4月15日 「命の光をもつ」
 
聖書:ヨハネによる福音書 8章12〜20節    説教 
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」 イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。
あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」 彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

   ユダヤ人は毎年イスラエルの40年の荒野の旅の恵みを体現するために仮庵祭を守ります。荒野の旅では飲み水に苦しみ、導きの光が必要でした。仮庵祭の中でイエス様は言われました。 
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」


 私たちの人生の旅でも、考えられない不幸に闇を実感します。自分が生まれてきたのは間違いではなかったのかと感じ、これからどこへゆくかがわからず苦しみます。
 イエス様は「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っている」と言われます。神様から来て、神様の愛を具現し、神様のもとに帰る。光であるイエス様は、この世を支配しているのは神様の愛であることをはっきりさせて下さいました。
 

私たちはまた、悪がはびこり、それが罰せられないことにも闇を感じます。
 ファリサイ派の人々は、皆が安逸に流れる中で、神様の義に生きようとして闇に抗した人々でした。しかし、義に生きることがまわりの不義を裁くことになってしまったのです。すぐ前の「姦通の女」への扱いがそれです。その裁きは相手をさらに罪へと追い込みます。
 イエス様は「あなたがたは肉に従って裁くが、…もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である」と言われます。本当の裁きは、人を罪から解放します。私たちの裁きはどうでしょうか。


 闇の中で私たちは、やがて来る光を待とうとします。開けない夜はないと。しかし、今は闇の中にいて光はありません。願望です。イエス様によって明らかにされた愛と赦しの支配の中に光は来ているのです。やがて来る光を待つのでなく、今イエス様の光の中に身を置くのです。


 

2012年4月8日 「あなたがたに平和があるように」   (イースター) 
聖書:ヨハネによる福音書 20章19〜23節     説教 
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。


そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。


イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」


そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」




 
   杖とも柱とも頼んでいたイエス様が十字架で死に、しかも自分たちはイエス様を裏切り、十字架に架けたユダヤ人達が余勢を駆って自分たちを捕まえに来るのではないかという恐れ。挫折と自責の念と不安から、弟子たちは家に閉じこもり、鍵を掛けていたのです。その日の朝の出来事、婦人たちの主の復活の報せは少しも心に届いていなかったのです。
 
「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」

「シャローム」という言葉は、「平和」(私たちは平和の大切さを嫌というほど知っています)とも、「平安」(事に出会ったときに平安でいられる幸い、平安は救いの一つの形です)とも訳せます。
 私たちはこのシャロームが表面的なことではなく、まず神様との間で必要なことを知っています。神様との関係が平和となり、隣人・自分との間も平和になるのです。十字架に付けられ、手と脇に傷のある主が「シャロームがあるように」と祝福して下さっているのです。


 信仰は理屈や人生訓ではありません。甦えられた生ける主は、挫折と不安と自責の中にいる私たちに、「平和があるようにと言って下さっているのです。
 現実から神様を見るのではありません。神様から、よみがえりの主の事実から自分たちの現実を見て、神様の祝福に生きるのです。

 この主が見えていますか。ぜひその祝福に生きて、その祝福をもち運ぶ者となれますように。

 

2012年4月1日 「キリストの十字架の意味」  
聖書:ヨハネによる福音書 19章16B〜30節   説教
こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。


兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。
それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていたイエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。


この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
   「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」
    
 ヨハネ19章16B節〜30節には、イエス様の最後の6時間の様子が記されています。刑場のゴルゴタの丘までの道行、十字架刑の罪状、十字架の下でイエス様の衣服を籤引きする様子、母マリヤと弟子の一人との新しい関係、最後のご様子などです。


 イエス様が十字架につけられたのは、外的にはユダの裏切り、弟子たちのふがいなさ、群衆の付和雷同、ピラトの優柔不断、祭司長たちの思惑がありましたが、内的にはイエス様が神様の御心に従い続けたことでもありました。この記事は、十字架上の痛ましいお姿を描くのではなく、イエス様の十字架上のことも下のことも、その一つひとつが旧約聖書の裏打ちによる神様のお心であったことを記しています。


「成し遂げられた」とは、「神の救いの業が成就した」との意味です。
 十字架の上で起こったことは、その出来事と共に、そこに込められた意味が大切なのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)                                              
独り子を犠牲とされた愛の形がここにあるのです。 神様の救いの業を知ることは私の尊さを知ることです。
私がどんなに神様から大切なものとされているかご存知ですか(ヨハネ1 3:1)