説教


2012年5月27日 「弁護者のいる歩み」     
聖書:ヨハネによる福音書 14章15〜24節    説教: 
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。

かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。




   ペンテコステ(五旬祭)はイ−スターから数えて50日目、イエス様を信じる群れに聖霊が下って教会が誕生した日です。
ユダヤ教では、過越祭には子羊を屠って奴隷から解放されたことを祝い、50日目シナイ山で奴隷から解放された人がどう生きたらよいかを示す律法が与えられた日として祝います。
私たちは、神の独り子が贖いの子羊となって私たちを罪から解放し、甦って神様に結び付けてくださったことをイ−スターで祝い、50日目のペンテコステには、律法のように外から私たちを教えるのでなく内側から人を導く聖霊が下った日として祝います。
聖霊は理解しにくいものですがこう考えたらよいでしょう。「父なる神」は天地の造り主として、この世界と私たちを造ってくださいました。「子なるキリスト」は私たちの世界に来られ、私に代わって罪の赦しをしてくださいました。父なる神と子なるキリストとは私たちの外側で私たちのために働いてくださったのに対して「聖霊なる神」は見えない姿で私たちの内に注がれ、私たちの内側から慰めと励ましと導きを与えてくださいます。
 

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。…わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのもとに帰ってくる。」


 なんと慰めに満ちた言葉でしょう。私たちには弁護者(かたわらにあって語る者)がいるので、みなしごではありません。
大きな苦しみや悲しみに出会うと私たちは孤独を感じます。皆が普通に生活しているのに自分だけは特別だとひしひしと孤独を感じます。その時弁護者が、耐えられない苦しみはなく神様が必ず道を拓いてくださると内側から励ましてくださいます。(コリント一 10:13)
新しい事業を始め、仕事の上で困難が生じた時、弁護者が祈りへと導き平安を与えてくださいます。(ローマ826〜29):
 慰めは家族や友人からの横からのものと、神様からの縦からのものがあります。死の前では横からの慰めは役に立ちません。人は一人で死に立ち向かわなければならないのです。その時も弁護者が「わたしは世の終わりまでいつもあなた方とともにいる」(マタイ28:20)と励ましてくださいます。

 地上の歩みとその先まで導いてくださる方がいます。聖霊です。イエス様を愛し(信仰とはイエス様を愛することです)、愛するのでそのお心に生きる。そして聖霊の導きに生きるのです。                                                                 

2012年5月20日 「神の業が現れるために」     
聖書:ヨハネによる福音書 9章1〜12節    説教 
 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 わたしは、世にいる間、世の光である。」
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

  「『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。』
生まれながらの盲人を前にだれもが発する問いです。なにより本人が一番聞きたい問いでしょう。しかしこの言葉は一つの答えでもあります。物事に原因と結果があるように、この事態もその原因は罪で、それがだれの罪かと問うているのです。
 因果律を無視するのではありません。冷静に見つめれば、私たちの苦しみは自分たちの蒔いたものを刈り取っていることが多くあります。
 しかし因果律で全てを解釈することはできません。身に覚えのない悲しみや身に余る苦しみは解釈出来ず、たとえその原因がわかったとしても、苦しみを担い続ける私を生かすものとはなりません。


「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」
なんと明快で慰めに満ちたイエス様の言葉でしょう。私たちを縛る因果律からの解放であり、過去から現在と将来に目を向けさせ、希望に満ちた神様の新しい創造の業に私たちを結びつけてくださいました。(参Uコリント12:7−10)


 イエス様のお言葉は、過去の原因を探るより将来に目を向けよ、その方が積極的だという人生訓ではありません。神様の創造の業はまだ続いているのです。「もし我々が、神は日々創造の業を新たに行っているということを信じなければ、我々の祈りは陳腐で生気のないものになってしまう。」(ユダヤ祈祷書) 神様の創造の業が今も続いていなければ、イエス様のお言葉もパウロの言葉も気休めです。
私の人生に現わされる、今も続く神の御業にあずかれというのです。

2012年5月13日 「天に属する者、地に属する者」  
聖書:ヨハネによる福音書 8章39〜59節   説教 
彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。 ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、 イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。 あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。 神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」


ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。 わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。 わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」 イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。
あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。
   大変長い個所ですから、二つに絞って考えます。

@「あなたたちは悪魔である父から出たものであって、その父の要望を満たしたいと思っている」
 なんとすごい言葉でしょう。ユダヤ人たちが、自分たちはアブラハムの子であって奴隷ではないと云いますと、イエス様は、あなた達は罪の奴隷であってそれは悪魔から出たものであると、人の罪の本質を鋭く指摘されます。自分の中にある負の部分を深く認識せよと言われます。
どれだけ深く自分の問題を知るかが救いの確かさと大きさにつながります。浅薄な自分の問題の認識は、浅薄な救いし与えられません


A「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」
 これを聞くとユダヤ人は「あなたは悪霊につかれている。アブラハムは死んだ。…あなたは自分を何者だと思っているのか」と言いますが、イエス様は「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と言われます。   
 「決して死ぬことはない」とは、肉体が死なないということではありません。死は、肉体の死でもありますが、それ以上に聖書では、命の源である神様との関係の中で人は生きること、神様との関係が損なわれることが死なのです。
「わたしはある」と言われたイエス様に自分を委ねてそのお言葉に生きると、人は死を見ないのです。地上では神様を父と拝して感謝の内に生き、たとえ肉体は死んでも、私たちは罪の内には死なず、神様のなかにあるのです。


 自分の負の部分を鋭く見据える誠実さがありますか。それをしないので問題が起こり続けます。そしてそれを赦しの中でしていますか。イエス様の赦しの中で見据えることで生きる喜びと責任ある生き方が出てくるのです。
 

2012年5月6日 「真理はあなたを自由にする」  
聖書:ヨハネによる福音書 8章31〜38節   説教
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

   「わたしの言葉にとどまるならば、…あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」


自由ほど人が求めるものはありません。住む所があり、食べる物さえあれば人は生きられるものではありません。それを旧ソ連邦は壮大な実験をして見せてくれました。
 
自由には、何でもできる自由としないでもいられる自由の二面があります。人を傷つけ嘘をついてお金を儲け、勝手に使う。それは自由ではありません。罪の奴隷です。真理に立つ以外に真の自由はないのです。
 
真理とは、非人間的な原則や法則ではなく、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われたイエス様そのものが真理です。
 憎み糾弾しあう私たちを赦して愛し、死の不安の前で永遠の生命と天の住居を約束し、不条理の涙の前で「神のみ業の顕れるために」と目を開いて下さるイエス様。罪、不安、こだわりは真理としてのイエス様によって解放されます。こだわりは捨てよと言われて捨てられるものではありません。闇は吸い取ることも追い出すことも出来せん。光が差し込んでやみはなくなるように、自由は真理に立ってはじめて与えられます。   
 苦しいことがあると、目先のことに左右され、この世の基準や価値観が顔を出しませんか。イエス様を私の心の王座にお迎えして、不安や執着から解放されて、自由に生きませんか。