2012年6月24日 「主の山に備えあり」     
聖書:創世記 22章1〜19節    説教 
これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。
 
   「神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを… 焼き尽す献げ物としてささげなさい。』」


 なんと恐ろしい言葉でしょう。しかし、アブラハムは神様の言葉に従いました。神様の言葉と親の愛情の板挟みになり、モリヤの山へ行く三日の道程は祈りの一歩一歩だったに違いありません。


 ここに信仰の従順があります。従順とは、何もかもが分かり、納得した上で従うのではなく、自分には自分の考えや思惑があっても、たとえ自分の意にそわなくても、神様のお言葉に従うことです。結局信仰とは、神様の前に自己主張することではなく、神様の主権に服することなのです。 

したいかしたくないか、好きか嫌いか、得か損か、私たちはことを決断するときいろいろ考えます。しかし最後は、しなければならないことは避けず、先送りせずに取り組んでいく。この潔い生き方へ押し出されることが信仰生活ですが、アブラハムが次のことを知っていました。アブラハムが裏切っても神様は彼を愛し、彼が背いても、神様は約束を変えることはありませんでした(16章)。アブラハムはその神様に応えたのです。


恵みに目が開かれ、苦悩の中で神様に従順に従うとき、「主の山に備えがある」のです。神様が道を備えてくださるのは、座して待つ時でなく信仰に立って一歩を踏み出す時です。
   

2012年6月17日 「感謝を見つける生活」    
聖書:テサロニケの信徒への手紙一 5章16〜22節    説教 
いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

どんなことにも感謝しなさい。

これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

“霊”の火を消してはいけません。
預言を軽んじてはいけません。

 
  「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。


毎日、感謝に満ちた生活を送れればどんなに幸いなことでしょう。不平や愚痴、恨みに満ちた生活より、感謝して毎日が送れればこれに勝る幸いはありません。
 「感謝せよ」と言います。感謝を自覚的にせよというのです。感謝は出来るからするのでなく、見つけてでもそうせよというのです。
聖書は暗く、つらい現実を知らないのではありません。それに目をつぶって感謝せよというのでもありません。それが分かった上で「感謝せよ」というのは、現実を超えるものを見ているからなのです。


「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っても、いても、主ともに生きるようになるためなのです」(5:9-10)


私たちの人生やこの世界がこの神様の愛の支配の下にあるからなのです。感謝することは、神様のお心なのです。実に感謝は、救いを確認することなのです。
これは喜ぶこと、祈ることでも同様です。
 

2012年6月10日 「見えると言いはる罪」 
聖書:ヨハネによる福音書 9章35〜41節    説教: 
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」


イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

21:テサロニケの信徒への手紙一 / 5章 21節
口語訳を見る
すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。


22:テサロニケの信徒への手紙一 / 5章 22節
口語訳を見る
あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。







   「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」    
     
盲人だった男は、「(この人が生まれつき目が見えないのは)本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもなく、神の業(わざ)がこの人に現われるためである」とのイエス様の言葉をいただき、神様の業(わざ)に与りました。
その日が安息日だったためにユダヤ人から尋問を受けますが、尋問を受ければ受けるほど、彼の信仰は確かにされてゆきました。みじめで明日に希望が持てず、自分の生まれをかこっていた彼の上に神様の業が現われたのです。神様がイエス様によってその人生を引き受けてくださったことに気付いたです。     


自分の人生が神様に結びついていますか。これがあやふやではありませんか。イエス様によって私の人生に神様の「然り」を聞いていますか。


この話は、肉眼が見えるかどうかということから神様の救いが見えているかどうかに移ります。
「我々も見えないということか」とファリサイ派の人々はイエス様に食い下がります。
彼らは信仰や律法について博学な知識を持っており、熱心でした。自分たちは、見える、神様の救いはわかっていると思っていました。ここに落し穴があります。見えると思っているので見えていないことに気づかず、わかっていると思うので知らなければならないことを知らないのです(コリント一8:2)。


信仰生活が長く、熱心であればあるほどそうです。もっと謙遜で心のしなやかさによって、自分が考える以上の生ける神様の業が見えていますか。自分の信仰の枠に神様の救いを押し込めていませんか


2012年6月3日 「ただ一つのことを知る」  
聖書:ヨハネによる福音書 9章13〜34節   説教:
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
  「あの方(イエス)がどこから来られたか…ご存じないとは、実に不思議です。…生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならないはずです」
 

生まれながら盲人だった男がいやされますと、その日が安息日だったため人々が問題とし、ファリサイ派の人々はそれを追求します。盲人だった男は、ファリサイ派の人たちの追求に一歩も退きません。追求されることで、信仰はかえって逞しく深くなりました。自分の上に現された神様の業(わざ)に立ち続けたからです。


 ベトザタの回廊で38年病みついて癒された人は違います。※ 癒しを感謝なこと、幸運なこととしてとらえたのでしょうか、イエス様に神様の業(わざ)を見ることはありませんでした。安息日違反を言われると、ユダヤ人社会からの村八分を恐れてイエス様をファリサイ派の人々に密告してしまいます。                                           


ファリサイ派の人々は、律法を研究し、わかっていました。信仰を知ることと信仰に生きることは違います。ファリサイ派の人々は信仰の専門家です。しかし、専門家には専門家の落し穴があります。いつの間にか信仰が建前となり、自分は専門家だという自負が信仰を自分の枠に押し込め、神様の活ける御業が見えなくなってしまうことです。
イエス様によって神様が私の人生に関わり祝福して下さっている。日々の生活でこの一点に立ち続けるかどうか、それが救いに生きるかどうかの別れ道です。 


※ヨハネ福音書 5章参照