2012年7月29日 「地を継ぐ者」      
聖書:創世記 26章15〜33節    説教: 
 ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕(しもべ)たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた。 アビメレクはイサクに言った。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」
イサクはそこを去って、ゲラルの谷に天幕を張って住んだ。 そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けた。イサクの僕(しもべ)たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると、ゲラルの羊飼いは、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである。 イサクの僕(しもべ)たちがもう一つの井戸を掘り当てると、それについても争いが生じた。そこで、イサクはその井戸をシトナ(敵意)と名付けた。 イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。
イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。


その夜、主が現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす、わが僕(しもべ)アブラハムのゆえに。」
イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕(しもべ)たちは井戸を掘った。


アビメレクが参謀のアフザトと軍隊の長のピコルと共に、ゲラルからイサクのところに来た。 イサクは彼らに尋ねた。「あなたたちは、わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか。」 彼らは答えた。「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。 以前、我々はあなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよう計り、あなたを無事に送り出しました。そのようにあなたも、我々にいかなる害も与えないでください。あなたは確かに、主に祝福された方です。」 そこで、イサクは彼らのために祝宴を催し、共に飲み食いした。


次の朝早く、互いに誓いを交わした後、イサクは彼らを送り出し、彼らは安らかに去って行った。その日に、井戸を掘っていたイサクの僕(しもべ)たちが帰って来て、「水が出ました」と報告した。
そこで、イサクはその井戸をシブア(誓い)と名付けた。そこで、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバ(誓いの井戸)といわれている。
   アブラハム、イサク、ヤコブと続くイスラエルの族長の中で、イサクは消極的で影の薄い印象を受けます。アブラハムの時に飢饉がありエジプトに下って飢饉を乗り越えますが(ヤコブの時も同じ)、イサクはエジプトには下らずゲラルに移住しました。


 貧しかった時にはペリシテ人は親切に接しますが、そこでイサクが裕福になると嫌がらせを受け立退かされます。ゲラルには、かつて父アブラハムが掘った井戸があって埋められていましたが、掘り直して水が出るとそれを奪われ、イサクは他に移ります。移る先で井戸を掘り、嫌がらせを受けてまた他のところに移動し、そこでも井戸を掘り続けます。イサクの跡には砂漠の民に必要な井戸が点々と掘られていったのでした。


 倒すか倒されるかという当時の社会で、美しく穏やかな物語です。人は彼のことを意気地のない者、敗北主義者と言ったかも知れません。しかし最後には彼を追い詰めたアビメレクもかぶとを脱いで、彼に和を求めたのでした。
 「柔和な人々は、幸いである。その人は地を受け継ぐ」(マタイ5:5)
彼はこのお言葉どおりの人でした。力ではなく、柔和で地を受け継いだのでした。


 地を継ぐ柔和とは、物腰の柔らかさといった外側のことではなく、相手と一つになりその荷を分かち合うところから来る優しさです。相手は上辺では強がりを言っても本心はさびしく困っているのです。相手の問題を自分の問題として一緒に担う優しさです。
 イエス様は柔和な方でした。自らもそう言われ(マタイ
11:29)、柔和を象徴するロバの子にまたがってエルサレムに入場されました(マタイ21:5)。しかし縄で鞭を作って神殿から商人を追い出し、ファリサイ派の人々とわたりあいました。外側の物腰の柔らかさではなく、罪を犯すものと一つになり、代わりに罰を受けるという連帯から来る優しさが柔和です
 

 私たちは相手の荷など担えないかも知れません。人はみな自分が生きることで精一杯なのです。
 でも、その人の上に神様の祝福は祈れませんか。

 

2012年7月22日 「良い業(わざ)にあずかる」     
聖書:ヨハネによる福音書 10章31〜41節    説教:  
 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。 すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」 ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」 そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。 神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。 それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」 そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。


イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。 多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」 そこでは、多くの人がイエスを信じた。



   ユダヤ人たちはイエスを石で打ち殺そうとし、イエス様がその理由を尋ねると「良い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。人間なのに、自分を神としているからだ」と答え、イエス様は「もしわたしが父の業を行っていないのであるなら信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくてもその業を信じなさい」とユダヤ人に言われます。 
 

生れ乍らの盲人がいました。イエス様は「神のみ業がこの人に現われるために」と言われて彼の目を開かれます。こんな人生は生きての事はない、これから先どうなるのかと絶望し、やけと不安の中にある彼に、「神様が何をしてくださるかを見すえて生きよ」と関わってくださいました。
 あなたがたはそれをよい業と認めた。その業を認めるなら、神の業がそこに始まっている、それを是非知り、悟ってほしいと言われるのです。


 生れ乍らの盲人にとって、見えるようになる事は良いことに違いありません。しかしそれ以上に、その人生を通して神様の栄光が現されることに気づかされることが良い業なのです。そして更に言えば、自分にとって神様が都合がよいかどうかではなく、神様にとって自分か良いかどうかと視点が変えられることが良い業なのです。


 これは富むことでも言えます。富むとは、聖書では、自分がどれだけの物を手に入れるかではありません。それ以上に隣人を豊かにすること、そしてそれは神に対して富むことなのです。(マタイ6章、ルカ12章。隣人に何かをしても感謝されるとは限りません。隣人にすることが神様への捧げものとなって初めて隣人を富ませます)
 

2012年7月15日 「永遠の命の世界にふれる」 
聖書:ヨハネによる福音書 10章22〜38節    説教: 
 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。
イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 わたしと父とは一つである。」


※神殿奉献記念祭
ユダヤはシリヤの属国となったが、BC167年マタティアと5人の子どもによって独立を勝ち取り、シリヤのアンティコオス4世によって汚された神殿がBC168年聖別され、この祭りが定められた。
12月25日〜1月1日までの8日間、現在でもハヌーカー(清めの意)としてユダヤ教徒は守っている
  「いつまでわたしたちに気をもませるのか。もしメシヤなら、はっきりそう言いなさい」
 神の国を説き、ユダヤ教団には一歩も退かないイエス様の出現は衝撃的でした。人々は、イエス様を信じることも拒否することもできないのです。
 ユダヤ人達は、イエス様がはっきり御自分を宣言したら聞くと言うのでもありません。事実イエス様は、言葉と業とによって神様から来た者であることを明らかにし続けましたが、聞いていないのです。
人々はローマの圧政の元で、イエス様がマタテヤ(続編マカバイ記)の再来かどうか、ダビデのようなメシヤであるかどうか、で迷っていたのです。救いは、イエス様に自分の期待や願望を投影することではありません。イエス様の与える救いに聞き、従えるかどうかなのです。


「わたしは彼らに永遠の命を与える。…私の父が与えて下さったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない」
「父が与えて下さったもの」とは、キリストを主と告白し、洗礼を受けた私たちのことです。私たちは、ことがうまくいくと天下を取ったように思い、失敗すると落ち込みます。私たちはいつも自分の惨めさを知っています。
しかしイエス様はそんな私たちを、「すべてのものより偉大であり」、尊く、かけがえのないものと言って下さいます。イエス様を知ることは私の救いが分かること、 私の救いがわかることとは私の尊さが分かることですこの幸いが分かっていますか。
この神の愛の中で、私たちは生き死ぬのです。それが永遠の命です(ローマ8:31−38) 
 

2012年7月8日 「主イエスは良い羊飼い」   
聖書:ヨハネによる福音書 10章7〜21節    説教: 
 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」


この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」
   「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
    

 偽の羊飼いがいます。羊を養うのではなく、食い物にする羊飼いです。
だれでも自分が生きることで精一杯です。 隣人を助けたいとは思いますが、助けられないのです。そんな時、親切に近づいて来るのは、真にその人を愛しているか、下心のある人です。下心のある人は上手に取り入り、その人を食い物にします。
雇い人も確かに羊飼いですが、狼が来て、自分の命が危うくなると羊を捨てて逃げ去ります。
 良い羊飼いは、自分の命に代えても羊を守りぬき、命を与えます。真の羊飼いは、私たち羊に豊かな命を与えてくださいます。


豊かさとは自分が豊かになることではなく、どれだけ人を豊かにできるかです。偉人と言われる人は、自然や人生に新しい価値を発見して人に提供します。自分を豊かにして自分の中に取り込むのではなく(それは強盗・雇人です)、人を豊かにすることです。この価値の転換が解かりますか。

 ある人は「私は良い羊飼いである」ではなく「私が良い羊飼いである」と訳すべきだと言います。「わたしは父だ」というのと「私が父だ」といって子の前に立つのは違うというのです。「私こそが真の羊飼い」と言われる羊飼いが私たちにはいるのです。
罪がからみつき、不条理が襲い、死の影におびえる私たちが真に生き、豊かな命に生きるために来てくださった大牧者イエス様は、「私がよい羊飼い」と言って下さいました。私たちに豊かな命を与え、「我が愛におれ」「我に従え」「我に委ねよ」と今も招いておられるのです。私たちはこの主の招きにどう応えますか。それが信仰です。

2012年7月1日 「羊飼いのいる幸い」 
聖書:ヨハネによる福音書 10章1〜6節   説教:
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
門から入る者が羊飼いである。
門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。


  「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れだすと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」    

     
聖書は、人と神様の関係を、羊と羊飼いの関係になぞらえて記します。
羊は弱く、愚かな動物です。敵を攻撃する牙も蹴爪も持たず、保護色にもなれず、逃走の足もなく、身を守る手立てはなにもありません。加えて愚かなのです。目も鼻も効かず、目先の草にしか興味をもたず、危険の予知能力も情況判断もありません。この羊は私たちの象徴です。
羊の命は、ただひとえに羊飼いにかかっています。羊飼いは神さまです。
 

羊飼いには真の羊飼いと、強盗・雇い人のような羊飼いがいます。その違いは、羊を生かすか食い物にするか、羊のことを本気で考えているか自分のことしか考えないかの違いです。真の羊飼いイエス様は命を張って敵(罪・死・悲しみ)と戦ってくださいました。


 聖書ではみじめなものを「飼う者のない羊」と言いますが、イエス様がいる私たちは本当に幸いです。この羊飼いのいることに目が開かれていますか。


 もう一つ、真の羊飼いの声を聞いていますか。これは簡単なことではありません。聞いたつもりでも聞きたいことだけを聞くことだってあるからです。羊飼いは羊を愛し、羊も羊飼いに聞き従う。この幸いを、さまざまなことの起こる毎日の生活で味わっていますか。