2012年8月26日 「まことに主がここにおられる」   
聖書:創世記 28章10〜22節     説教: 
 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。
とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。
すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」  
ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。
ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、
わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」
   ヤコブは不安と寂寥の中でルズの野に来ました。当然なのです。兄エサウの目先のことしか考えない性格を見ぬいて長子の特権を奪い、父の死がまぢかなことを利用して神様の祝福をだまし盗ったのですから。兄エサウの恨みを買って故郷を離れ、伯父ラバンの家に向かわざるを得なくなったのです。その旅の途中の出来事です。


 野宿するヤコブに神様が夢に現われ、言われました。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。…わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行ってもあなたを守り、わたしはあなたを決して捨てない」と。
 日本ではそこに住んでいる時はその地の神社の氏子ですが、よそに引っ越せばその神社と無縁になります。聖書の神様は場所ではなく、「アブハムの神、イサクの神」として人に結びつきます。どこへ行っても、その人と共にいてくださる神様です。


 旅は人の内面を深く見つめさせます。ヤコブの様子を世間の人は罰が当たったと言います。ヤコブも、危険で寂寥とした旅路でそのしてきたことを振り返り、今の自分を、自分が蒔いたものを刈り取った当然の結果と考えたに違いありません。それはその通りです。でも神様は言います。「私は決してあなたを捨てない」と言ってくださいます
 聖書は道徳とは違います。多くは重なりますが中心は違います。不道徳でいいのではありません。人は自分の蒔いたものは必ず刈り取ります。これは人生の厳粛な事実です。しかし、だからと言って神様がその人を捨て、共にいることをやめるのではありません。
 放蕩息子は他人から見れば自業自得ですが、父は彼を待ち続けて受け入れます。聖書は私を愛し続ける神を語ります。これが聖書です。
 人生の自分の失敗や苦悩から神様を判断するのではなく、神様の愛から人生をとらえられませんか。

 

 2012年8月19日 「寄り添うキリスト」    
 聖書:ヨハネによる福音書 11章28〜37節    説教:  
 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 イエスは涙を流された。
ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、


22:創世記 / 28章 22節
口語訳を見る
わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」


  ラザロが亡くなってから4日目にベタニヤへ来られたイエス様は、マリヤが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て「心に憤りをお覚え」(うめきが外に漏れてくるような死に対する激しい憤り)、「興奮し」(感情が激する以上に、神様の御業がなるかどうかで心が激しく揺さぶられ)、「涙を流された」(聖書にイエス様の笑い―事柄を客観的に見る行為−は記されていません。悲しみへの深い共感で、寄り添う姿)のでした。


ギリシャの哲人は言います。神は超越者であって人間の感情に左右されるのはおかしいと。しかし人となられた御子は、涙する者と共に涙され、人を無残に打ち砕く死に激しく立ち向かわれるお方なのです。


今度の東日本大震災で二つの言葉が注目されています、絆(きずな)と寄り添うという言葉です。親しい者との、いつ断ち切られるかもしれない絆の大切さ。深く傷ついた者にただ寄り添う、それが何物にも代えがたい癒しにつながっている、という二つです。日本は大切なことを学びました。


マルタは(11:17〜27)一般論ではなく一歩踏み込んだ甦りの信仰を確認させられ、マリヤはイエス様のお人柄、寄り添い、死に立ち向かう御姿を明らかにされました。
これが私たちの主です。

 2012年8月12日 「死んでも生きる」    
聖書:ヨハネによる福音書 11章17〜27節    説教: 
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」



  「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
 

死後四日たってこられたイエス様に、マルタは「もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言います。少し恨みをこめて云ったのでしょうか、事実を言ったのでしょうか。それに対してイエス様は「あなたの兄弟は復活する」と言われ、上掲のお言葉を宣言されました。


牧師になりたての頃私はこの言葉の意味がわかりませんでした。死ねば死ぬのだし、生きていてイエス様を信じる者は決して死なないなどとは思えませんでした。肉体の死と生しか見ていなかったのです。   
 勿論、人は皆死ぬのです。聖書は「命」を、肉体に関わること以上に、神様に結びつくことと言います。ラザロは死にました。しかし、イエス様に接する前と接してからはずいぶん違った生き方をしたに違いありません。そのあとの生涯で、時には泣き、苦しんだでしょう。しかし深いところではイエス様の愛の中で生き、イエス様の御手の中に死んだのです。地上にある時は、神様がその生涯に何を見せてくださるかを期待して生き、地上の先もイエス様の御手に導かれる。これが「生きる」の中身です。


「『生きている時も、死ぬ時も、あなたの唯一の慰めは何ですか。』
『身も魂も、生きている時も死ぬ時も、私が私のものではなく、私の真実なる救い主、イエス・キリストのものであることであります』」   
                 (ハイデルベルク信仰問答)

2012年8月5日 「死で終わらない死」  
聖書:ヨハネによる福音書 11章1〜16節   説教:
ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
  「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」


病気はいつも死と結びついています。イエス様はラザロの危篤の報を受けてもそこに尚二日間滞在され、すぐにラザロのもとに駆け付けませんでした。そのことは「あなたがたにとって良かった」とも言われます。すぐに駆け付けて病気の癒しを見るのでなく、死人の甦りを見るからです。そしてラザロの死と甦りは、そのままイエス様と私たちの死と甦りを指し示しているのです。

                                   
神様が神様としてのお働きが人々にわかることが「栄光」です。ヨハネ福音書で「栄光」は、十字架をさします。神様が神様として私たちに明らかにされるのは、感動する美しさの中にあるのではなく、御子が人々の罪のために死に、神様の赦しを人に与える十字架にこそあるからです。
    
 世間の人は、天国を願望しますが漠然としています。それは罪の赦しがないからです。私たちは十字架による罪の赦しがはっきりしているので天国の希望もはっきりしています。イエス様は、死を少し先に延ばしたり、死なない命を約束したのではありません。死んでも終わらない命をお与え下さったのです。
 
地上にある時は、私の破れにどのように神様が栄光を現されるかを拝見しながら生き、地上の先にも神様のみ手を見て生きていくのです。