2012年9月30日 「神との組打ち」    
聖書:創世記 32章23〜33節    説教:   
 その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、
ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」
「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」
「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。
ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。


ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。 こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。

   伯父ラバンの家を追われるように後にしたので引き返せず、かつての恨みを覚えて四百人の手勢を率いて迎えにでた兄エサウも目の前にいます。
すべて自分の蒔いたものを刈りとってのことですが、ヤコブは進退極まり、祈ります。


 「苦しいから祈る」というのは本当でしょうか。違います。苦しい時には祈らないのです。逆境に落ちると、祈るより不機嫌になります。祈るよりもあれこれと右往左往し、自暴自棄になり、目先のとんでもない誘惑に引っ掛かります。
幸いな時にそれを感謝できるのも恵みですが、苦しい時に祈れることも恵みです。それが問題の解決の第一歩なのです。 


 祈りは、自分の考えや願いを貫徹させることではなく、その問題のさなかに神様に来ていただくことです。状況が変わることもありますし、何より自分が変えられることです。問題はいつも自分が引き起こしているからです。自分がしたいかしたくないかではなく、神様が私を通して何をされようとしておられるか、ヤコブ(押し退ける者)からイスラエル(神の勝利)に変えられることなのです。私が変えられなければ、また同じ失敗を繰り返すのです。


問題に遭遇したときの「ヤボクの渡し」を持っていますか。隠れたところで隠れたことを見ておられる「隠れた祭壇」を築けていますか。


 
2012年9月23日 「キリストへの捧げもの」      
聖書:ヨハネによる福音書 12章1〜11節    説教:  
過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。 祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

    イエス様を取りまくただならぬ雰囲気に、マリヤはナルドの香油一リトラをイエス様の足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐいました。体裁も計算も越えたイエス様への愛の行為です。イエス様もそれを「葬りの備え」と受けとめて下さいました。


 それを見ていたユダは、「なぜこの香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言います。一、二滴で十分なのですから当然の言葉でしょう。しかし聖書は「彼は貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながらその中身をごまかしていたからである」と記します。
 「盗人」と言っても、イエス様に捧げられた献金をくすねて遊興費にあてたのではありません。そんな暇も場所もありません。ユダは金入れを預かって必要なお金の出し入れを行ない、貧しい人にその中から施しをしていたに違いないのです。ところがそれをし続けるうちに、いつのまにかそれをする自分に優越感を覚え、貧しい人への配慮以上に自分が主人になってしまったのです。イエス様への栄誉を盗んだのです。
 

イエス様は命を捧げて下さいました。それに応えたマリヤの業は人の目を意識しない行為です。ユダは人の目を意識し、どこかに計算がありました。
 私たちが計算や人の目や名誉欲から解放されるためには、イエス様への感謝というフィルターを通す必要があります。そうでないといつの間にか良い業が変質してきます。私たちのする業は深いところで皆そうです。

2012年9月16日 「なくてならないものはただ1つ」    
聖書:ルカによる福音書 10章38〜42節   説教:新しい人のための特別礼拝
    前松原教会 山田京二牧師
 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」



   主イエスはなくてならないものは、ただ一つだと言われました。


 この時点では本当にしなくてはならないことは、ただ一つだ、ということがある。そして、その一つということがわかったならば、他のことは捨てなくてはならない。捨てるということをしないと、せっかく選び取ったなくてならないただ一つのことを見失ってしまう。


 姉のマルタは主イエスがいらしたときに、イエスの話を聞くことが一番大事なことだということは知っていた。知ってはいたが、女として当然しなくてはならない接待するということを捨てていなかった。そういう社会常識を捨てていなかった。そのためにマルタはイエスから叱られてしまった。

 妹のマリヤはそれを捨てて、イエスの話に聞き入っていた。捨てるということがどんなに大事か。捨てるということは、場合によっては、人を傷つけることになるかもしれない。しかしそれを恐れて、八方美人的な生き方をしているだけでは、大切なものを失ってしまうのではないか。
 

 主イエスが言われた「なくてならないただ一つのものとは」とは何か。それは「聞く」ということでした。
 主イエスの言葉を聞く、神の言葉を聞く、聖書の言葉を聞くということだったのです。私たちの生活において、聞くということがどんなに大事なことか。自分を超えた神の言葉を聞く、自分とは違う他者の声を聞く、これがどんなに大事なことか。自分以外の声を聞くということがどんなに大切のことか。
                     
 

2012年9月9日 「身代わりの死」     
聖書:ヨハネによる福音書 11章45〜57節   説教: 
 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。


さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」
祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。
   「『この男は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう』…大祭司であるカイアファが言った。『あなたがたは何もわかっていない。一人の人間が民の代りに死に、国民全体が滅びないですむほうが、あなたがたに好都合だと考えないのか』」 

    
 ラザロが生き返らされた後、事態収拾のため最高法院で語られたイエス様を殺害する陰謀の言葉です。その言葉通り、一週間後、イエス様は十字架で殺害されました。
 神様は、カイアファが計画し実行したまさにその事によって、全ての民を救うこととされたのです。
 イエス様が人の罪を背負って十字架で殺害され、私たちは神様と結び付けられる救いの道がなりました。


「男の子は皆ナイル川に流せ」と言ったファラオの言葉の通り、ナイル川に流されファラオの娘にすくいあげられ、帝王教育を受けたモーセによって出エジプトが行われたのと同じです。
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ローマ11:39)


 神様は善いこと、美しいことを用いて御業を進めます。時には涙と悲しみを通して行なわれます。さらに、人の罪さえ用います。
 私たちは罪人であっていいのではありません。しかし神様は、どんなことがあっても救いを遂行されます。昔も、今も、そしてこれからも。



2012年9月2日 「死からの解放」  
聖書:ヨハネによる福音書 11章38〜44節   説教:
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

   この箇所には、イエス様の死との戦いと勝利が記されています。それは、諦めて泣く以外に何も出来ない人の死との戦いの姿です。 
   

「もし信じるなら神の栄光を見られると、言っておいたではないか」
「神の栄光を見る」とは、今からラザロを呼びだす奇跡を見よとか、死臭がするほど肉体は腐乱しているけれども魂は死なないといったことではありません。神様が神様とわかることです。この後のイエス様のされることをしっかり見れば、神が神として働き、神の栄光が見えるということです。


 死には三人称の死(一般の人の死。胸は痛みますが眠れないほどではありません)、二人称の死(愛する者、あなたの死。辛く立ち直るまでどれだけの涙を流すでしょうか)、一人称の死(私が死に立ち向かう死)の三つがあります。
 死を前に良寛和尚はこう言います。「災難に遭うときは災難に遭うが宜しく候。病苦に遭うときは病苦に遭うが宜しく候。死ぬ時には死ぬが宜しく候。是は是、これが災難を免れる妙法にて候。」 実に見事な達観です。
 それができれば問題はないのです。それができないで私たちは苦しむのです。私たちには神様から遣わされたイエス様がいます。イエス様が死と私たちの間に立って、死から解放してくださり、死の先にも導きの手を延べてくださっているのです。
 私たちはことに出会うと、何が起こり、これからどうなるかを考えます。事柄を分析し、整理します。しかし死の前に分析や整理は何の力もありません。聖書は、分析でなく、一体誰が主なのか、を問うています。