説教


2012年10月28日 「原点に返る」     
聖書:創世記 35章1〜7節     説教 
神はヤコブに言われた。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい。」
 
ヤコブは、家族の者や一緒にいるすべての人々に言った。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。」
人々は、持っていた外国のすべての神々と、着けていた耳飾りをヤコブに渡したので、ヤコブはそれらをシケムの近くにある樫の木の下に埋めた。 こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。


ヤコブはやがて、一族の者すべてと共に、カナン地方のルズ、すなわちベテルに着き、そこに祭壇を築いて、その場所をエル・ベテルと名付けた。兄を避けて逃げて行ったとき、神がそこでヤコブに現れたからである。

 
   ヤコブはずるい人でした。兄エサウから家督の権や祝福を奪い取り、伯父ラバンを手玉にとってその財産をかすめとります。勿論そんなことが許されるはずもなく、その地を追われていきます。しかし彼はその都度、一人になって神様の前に立ちます(28:10-22、32:10-33)。
 
 兄や伯父の手から辛くも逃れ、やっとシケムに落ち着いた矢先、子供たちが足元をすくうような事件を起こします。付近の町々には彼を狙う不穏な空気がただよいます。その時も彼は「さあ、これからベテルに上り、苦難の時わたしに答えてくださった神のために祭壇を造ろう」と自分の「ベテル」に上ります。 
 
 エサウは、人間的には愛すべき人でした。悪く言えば単純ですが、竹を割ったような性格で、20年前の恨みをあっさり許す男気のある人でした。

 しかし、神様に選ばれたのはエサウではなくヤコブでした。ヤコブにはずるさと失敗があります。しかし最後にはいつも神様の前に祭壇を築いたのです。エサウは違います。家督の権と祝福を奪いとられると、すぐヘト人の娘と結婚して、姻戚で人生を拓こうとしたのでした。男らしい一面はありますが、最後の一線を簡単に崩し、神様の前で自分を立て直すことをついにしなかったのです。
 そこでいつも自分を立ち直らせる原点、祭壇を築いていますか。
 

2012年10月21日 「一粒の麦」     
聖書:ヨハネによる福音書 12章20〜26節    説教: 
さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」


   「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」
「栄光」とは神様が神様として明らかになることです。神様が最も神様らしく現われて下さる時、それは神の独り子が一粒の麦として死ぬ時です。
自然界では、実を結ぶために死は必須条件です。麦は土の中に落ち、死んだとしか思えないほど形が損なわれたところから芽を出し、十倍百倍の実を結びます。命のためには命の代償が必要です。イエス様はこの原理をご自身にあてはめられ、御自身が十字架で死んで私たちを神様に結びつけ、万人に命をお与えになられました。
 
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎むものはそれを保って永遠の命にいたる」
私たちは自分を守ろうとする欲求をもっています。何事でも、決断する最後の決め手は自分の利益です。この自分中心がどんなに手強い問題か。この解決のためには「自分の命を憎む」と言わざるをえないほどのことなのです。
 自分の中にある醜さに気付いてもそれをやめることは出来ません。一粒の麦となって下さったイエス様の愛に身を委ねます。問題のある自分との決別は、自分を越えるもっと大きな肯定の中で初めて出来ることなのです。
一粒の麦となって愛と命を与えてくださったイエス様。その愛に生きて、私もできる仕方で一粒の麦となって人に仕え、神の愛を味わっていきます。


2012年10月14日 「冷たい運命から温かい摂理信仰へ」 
聖書:創世記 50章15〜21節
聖書:ルカによる福音書 23章35〜43節
聖書:ローマの信徒への手紙 8章26〜30節 
  説教: 日本聖書神学校校長 小林誠治牧師の説教
    (新しい人への特別礼拝) 
<創世記 50章15〜21節> 
ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。 そこで、人を介してヨセフに言った。
「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。 『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」
これを聞いて、ヨセフは涙を流した。 やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、ヨセフは兄たちに言った。
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。 どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけたどうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」
ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。
 
 
<ルカによる福音書 23章35〜43節>
民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
 
 
<ローマの信徒への手紙 8章26〜30節>
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
  キリスト教は「摂理信仰」です。この世のすべての出来事、私たちの人生のすべては、神の御手の中で配慮され導かれているのだという信仰です。
私たちはさまざまな条件に束縛され、自分にめぐり来るすべてを、運命とか偶然であるとして処理してしまう考え方とは、似て非なるもので、両者は対立するものです。


「摂理」という言葉の源は、旧約聖書創世記22章に見出すことができます。イスラエルの信仰の父祖アブラハムが、ひとり子イサクを犠牲の子羊として神に捧げよと命じられたモリヤの山へ向かい、イサクに「焼き尽くす捧げ物の子羊はどこにいるのですか」と問われた時、アブラハムは「焼き尽くす捧げ物の子羊はきっと神が備えてくださる」と答えています。
「神が備えてくださる」という言葉が「摂理」の語源です。神はあらかじめ知っておられ、そのために良い意志と配慮をもって世話をしてくださるという意味です。
イスラエルの父祖のひとりヨセフも、イエス・キリストの僕パウロも摂理信仰に生きた人でした。


ヨセフは自らの生涯を顧みて「あなた方はわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50:20)と述懐しています。
パウロは「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8:28)と告白しています。


神による救いの配慮は、イエス・キリストの十字架の苦難と死において明らかにされています。主イエスは十字架上で自分を十字架につけて人々のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と執り成しを祈り、また、隣の十字架の犯罪人に対して「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)と救いを約束しています。
この世の運命は冷たく死に終わりますが、神の摂理は温かく救いの希望を与えてくれるのです。
        

2012年10月7日 「ロバの子に乗る王」  
聖書:ヨハネによる福音書 12章12〜19節   説教:
その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」
イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」
弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。
群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。
そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」


   イエス様がエルサレムに来たと聞くと、大群衆がなつめやしの枝をもって迎えました。ローマの圧政に苦しんでいた人々は、かつてシリアの圧政から自分達を解放したマタティヤの息子達の凱旋とイエス様を重ねあわせたのかも知れません。巡礼者もいます。問題を抱えて巡礼に出ます。巡礼は神に出会う旅なのです。そんな群衆がイエス様を大歓迎します。その群衆が一週間後には「十字架に付けよ」と叫ぶのですが。
    
 イエス様は、1週間後豹変する群衆に「おまえ達の信仰は本物ではない」と叱責されません。人々の思いや弱さが痛いほど分かっていたのです。むしろ喜んで、「あなた方は王として私を迎えた。その通りだ。私も王として来た。ただ軍馬にまたがって、力で相手を蹴散らす王ではなく、荷を担う柔和な子ロバにのる王なのだ」と、人々に示されたのです。
    
 人生には、「これにて一件落着」といった救いはありません。それは芝居や物語の世界だけです。苦しく辛くはあっても、解決の時まで私たちは荷を担い続けなければならないのです。           
しかし、私一人がこれを担うのではありません。私たちにはロバの子に乗られたイエス様がおられるのです。問題がなくなることが救いではなく、問題をイエス様と共に担い直すことが救いなのです。これに気付いてください。