説教


2012年11月25日 「神が共におられる」     
聖書:創世記 39章1〜23節    説教 
 ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。
主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。 主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。 これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。
「わたしの床に入りなさい。」
しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。 この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」 彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。
こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつかんで言った。
「わたしの床に入りなさい。」
ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。
着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。
「見てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。 わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました。」
彼女は、主人が家に帰って来るまで、その着物を傍らに置いていた。
そして、主人に同じことを語った。「あなたがわたしたちの所に連れて来た、あのヘブライ人の奴隷はわたしの所に来て、いたずらをしようとしたのです。 わたしが大声をあげて叫んだものですから、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げて行きました。」
「あなたの奴隷がわたしにこんなことをしたのです」と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、 ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。
しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。 監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。
  人は自分の蒔いたものを刈り取ります。父の溺愛によって高慢で鼻持ちならない少年として育ったヨセフは、兄達の恨みをかい、銀20枚でイシュマエル人に奴隷として売り飛ばされ、エジプトの高官ポティファルに買われました。 
 
父のお気に入りの息子から一転して奴隷の身分となる。楽しさは人生に彩りを与えますが、涙は人を変えます。苦しみが彼を変えたのです。彼に才能もあったのでしょう、まず言葉を覚え、習慣を身につけ、陰日向なく働いたに違いありません。異国のエジプトでポティファルの一家のすべてを任される者になり、やっと足場を築きます。  
 
ところが、顔がきれいでスタイルも良いヨセフをポティファルの妻が誘惑し、なびかないヨセフを妻は讒訴し、獄に繋がれる身となりました。いくら身の潔白を訴えても証人はなく、王宮の罪人の入る牢屋に入れられました。
しかし、彼の裏表のない生き方、親切で公平に苦しむ囚人に接したのでしょう、牢屋でもすべてを任される者になりました。
 
「大きな苦しみを受けた人は、恨むようになるか優しくなるかのいずれかである」(ウイル・デューラント)と言われますが、彼の場合苦しみが鍛えました。
この後彼がどうなったのか、私たちは聖書で知っています。ポティファルもとでは表からエジプトの社会を知らされ、牢屋では裏側から社会の仕組みを教えられ、ついにはエジプトの一切を任される宰相となってイスラエルを飢饉から救ったのでした。
 
人の知るところは一部分であって全てではありません。目先の苦楽で決して人生を評価してはならないのです。私たちには未来は分かりませんが、未来を導く神様は知っています。
高慢で鼻持ちならない少年だったヨセフを変えたのは苦しみです。痛みの中で彼は造りかえられたのですが、彼が神様を知る以上に神様から知られことを知ったからでした。私が神様と共にある以上に神様が共にいて下さることを知ったからでした。



2012年11月18日 「キリストの救いへの叫び」    
聖書:ヨハネによる福音書 12章44〜50節    説教 
イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

  この箇所は、これまでのヨハネ福音書のまとめと、この後の記述の導入の部分で、イエス様の人々の救いへの招きの叫びです。
    
人はなぜイエス様を信じられないのでしょうか。
「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ…人々をはばかって公に言い表わさなかった。彼らは神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」
心の内で信じていてもそれを公にしなければ信仰にはなりません。公にしないのは、人から悪く思われたくないからなのです。結局問題は、自分を愛するのか、自分を愛して下さっている神を愛するか、ということなのです。
 
その言葉を聞いてそれを守らない人がいても、イエス様はその人を裁きません。裁くのはその人が引きずっている業そのものです。人を憎んで赦せない、憎み続けることがそのままその人への裁きなのです。
 
「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている」 
父の「命令」とは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」(13::34) の「掟」と同じことです。
愛に生きることは命に生きることです。生きる実感は愛し合う喜びの中にあります。愛せない時も勿論あります。その時もイエス様の「洗足の愛」におしだされて神様の愛に立ち返り、永遠の命に生きるのです。
憎しみと不安に生きる。それは暗闇です。「わたしを信じ神の愛に生きよ」とイエス様は叫び、招かれます。
この招きに身を委ねませんか。

2012年11月11日 「光の中を歩く」     
聖書:ヨハネによる福音書 12章27〜43節    説教: 
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。 すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
 
イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。
預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。
  ここにはヨハネによる福音書の「ゲッセマネの祈り」があります。
 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 父よ、御名の栄光を現してください。」
 そして言われます。「光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、…光を信じなさい」
    
私たちの毎日は暗闇に覆われているとしか思えません。社会もそうですが自分自身も人知れず苦しみ、痛みを担っています。だれでもそうです。病気、様々な重い課題、次第に年を加え、年老いた両親。周りの状況しか見えず不安にかられ、闇の中にいます。神様は見えていません。
問題や課題に目が奪われている私たちに、主の十字架は、神様の愛を明らかにし、神様が神様として見えるようにして下さるのです。
 
暗闇のもう一つの姿に「憎しみ」があります。
「兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへゆくかを知りません」(ヨハネ一2・11) 
不安や悲しみが消極的な暗闇なら、憎しみは積極的な暗闇です。憎しみの中にある時、人は自分しか見えません。闇の中におり、神様はその人の内にはいません。
人の憎しみが主を十字架につけましたが、主の十字架は、神様の愛を明らかにして憎しみを吸い取り、神様が神様として見えるようにして下さるのです。    
 
不安の中で生き、憎しみの炎を燃やし続ける不毛な生き方をしますか。それともイエス様の十字架の愛の中に飛び込んで光の中を生きますか。


 

2012年11月4日 「陰府に身を横たえようとも」  
聖書:詩編 139篇1〜18節   説教:
主よ、あなたはわたしを究めわたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。 歩くのも伏すのも見分けわたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる。
その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。


どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。
どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
天に登ろうとも、あなたはそこにいまし陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。


わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。


あなたは、わたしの内臓を造りの胎内にわたしを組み立ててくださった。
わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。
秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。
あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。
数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる
  「主よ、あなたはわたしを究めわたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟って  おられる。わたしの舌にまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる」
「どこへ行けばあなたの霊から離れることが出来よう。
天に上ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」
 
 ここには難しいことは何も記されていません。神様の全知、遍在、全能が力強く歌われています。ある人は詩編139篇を「詩編の王冠」と呼んでいます。
  
 信仰の民イスラエルはバビロンに破れました。神殿は廃虚と化し、敵国で奴隷の生活をしいられ、その信仰は根底からくつがえされました。イスラエルの神はバビロンの神に負けたのか、神を信じるということは何だったのか。喜びは人生に彩りを与えますが、苦しみは人に深みと逞しさを与えます。
 そこで知らされたことは、自分達が考えていたよりはるかに大きく、強い神様の力と配慮、自分がどこにいてもそこにいてくださり、自分のことを知り尽くされる神。自分を尊く扱ってくださっている神様。大きな艱難の中でその信仰に目が開かれたのです。
 
 これが私たちの信じている神様です。私たちから何もかもを奪い取る死の前で、気力も体力も自分の信仰心さえ吸い取られる死の前で、自分がつかんでいる神ではなく自分をつかんでいて下さる神様がいるのです。