2013年1月27日 「闇を切り開く」 | ||
聖書:創世記 40章1〜23節 | 説教: | |
これらのことの後で、エジプト王の給仕役と料理役が主君であるエジプト王に過ちを犯した。 ファラオは怒って、この二人の宮廷の役人、給仕役の長と料理役の長を、侍従長の家にある牢獄、つまりヨセフがつながれている監獄に引き渡した。侍従長は彼らをヨセフに預け、身辺の世話をさせた。牢獄の中で幾日かが過ぎたが、
監獄につながれていたエジプト王の給仕役と料理役は、二人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢には、それぞれ意味が隠されていた。 朝になって、ヨセフが二人のところへ行ってみると、二人ともふさぎ込んでいた。ヨセフは主人の家の牢獄に自分と一緒に入れられているファラオの宮廷の役人に尋ねた。 「今日は、どうしてそんなに憂うつな顔をしているのですか。」 「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」と二人は答えた。ヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と言った。 給仕役の長はヨセフに自分の見た夢を話した。 「わたしが夢を見ていると、一本のぶどうの木が目の前に現れたのです。 そのぶどうの木には三本のつるがありました。それがみるみるうちに芽を出したかと思うと、すぐに花が咲き、ふさふさとしたぶどうが熟しました。 ファラオの杯を手にしていたわたしは、そのぶどうを取って、ファラオの杯に搾り、その杯をファラオにささげました。」 ヨセフは言った。 「その解き明かしはこうです。三本のつるは三日です。 三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて、元の職務に復帰させてくださいます。あなたは以前、給仕役であったときのように、ファラオに杯をささげる役目をするようになります。 ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください。 わたしはヘブライ人の国から無理やり連れて来られたのです。また、ここでも、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。」 料理役の長は、ヨセフが巧みに解き明かすのを見て言った。 「わたしも夢を見ていると、編んだ籠が三個わたしの頭の上にありました。いちばん上の籠には、料理役がファラオのために調えたいろいろな料理が入っていましたが、鳥がわたしの頭の上の籠からそれを食べているのです。」 ヨセフは答えた。 「その解き明かしはこうです。三個の籠は三日です。 三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて切り離し、あなたを木にかけます。そして、鳥があなたの肉をついばみます。」 三日目はファラオの誕生日であったので、ファラオは家来たちを皆、招いて、祝宴を催した。そして、家来たちの居並ぶところで例の給仕役の長の頭と料理役の長の頭を上げて調べた。ファラオは給仕役の長を給仕の職に復帰させたので、彼はファラオに杯をささげる役目をするようになったが、 料理役の長は、ヨセフが解き明かしたとおり木にかけられた。 ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった |
苦節十年、兄たちの奸計により奴隷としてエジプトに売られた後、ヨセフは汗と涙でやっと足場を築きます。しかし、ポティファルの奥さんにハメられ獄中の人となりますが、それでも彼はくじけません。 陰日向なく囚人のお世話をしたのでしょう、獄中でもヨセフは重く用いられます。ある日、ファラオの高官の謎に満ちた夢を解いて彼を救い、自分の身の潔白を語ってファラオに執成を依頼します。しかし給仕長は自由の身になるとヨセフのことなどすっかり忘れてしまいます。給仕長がヨセフを思い出したのは、2年後にファラオが不気味な夢を見た時でした。 私たちは物語でそれを知っています。しかしヨセフは知りません。この二年間をヨセフはどんな思いで過ごしたことでしょう。先の見えないヨセフにとっては闇のときです。 人生には、人をくさらせる落し穴がそこここにあります。讒言(ザンゲン)によってはめられ、忘恩によって無視されます。積極的におとしいれられ、消極的に無視されて、人はやる気を失います。 カギは、目先のことに目が奪われてしまうか、時を導く神様を見据えているかどうかです。先は見えませんが、先を導く神様を私たちは知っています。神様の舞台は時です。時を支配し、この世と私の人生を導かれる神様に身を委ねる者が、そこでも立ち続けられるのです。そこに立つので、おかれたところで義務と責任を果たしていくのです(参エレミヤ書29章1〜14節) |
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2013年1月20日 「注がれた愛を見据える」 | ||
聖書:ヨハネによる福音書 13章21〜38節 | 説教: | |
イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。 ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。 座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。 ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」 イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 |
イエス様と行動を共にするうち、ユダはイエス様との隔たりを感じだしたに違いありません。そしてイエス様に見切りを付けたのです。ユダは裏切りの思いを上手に隠していましたが、心を痛めていたイエス様にはよく見えていました。ユダの心をひるがえすために、その足を洗い、愛情の表れであるパンを浸してユダに与えますが、その思いは届きません。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」、ユダの心を表す象徴的な言葉です。 ユダを選んだのはイエス様でした。そのユダがイエス様を裏切る。イエス様には人を見る目がなかったのでしょうか。ユダは恩を仇で返すような特別に破廉恥な人だったのでしょうか。 絶対に裏切らないのは動物かロボットだけです。人はいつも裏切る可能性を持っています。人格的な関係はいつもそうです。裏切ることはできるけれども裏切らない。そしてイエス様に従うのです。 ユダの裏切りによってイエス様は十字架につけられました。だれかがこの役割を引き受けなければならないとしたら、私たちはむしろユダに感謝すべきだ、と言う人もいます。理屈では分かりますが違います。神さまが人を救うという御心は必ずなります。人は動物やロボットではありませんから自分の判断で感謝の内に神様にお従いするか、背を向けて神様の業に組み込まれていくかなのです。 それなら、いつ裏切ってもおかしくないこの闇を照らすものはなんなのでしょう。「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時がきたことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた」。 この中にユダも入っています。ユダがイエス様を愛する以上に、イエス様を裏切った時も、その愛を見失って自死した後も、イエス様はユダを愛しぬかれているのです。闇の中にこの愛が輝いています。これが分かりますか。ここに立てませんか。これを見据え続けませんか。 |
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2013年1月13日 「キリストをまねる生活」 | ||
聖書:ヨハネによる福音書 13章12〜20節 | 説教: | |
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。 はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」 |
「主であり、師であるわたし(イエス様)があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。…このことが分かり、そのとおりに実行するなら幸いである」 弟子達の足が洗われるとは、イエス様から「仕えられ」「赦され」「愛される」事です。本来なら、仕えられるはずの神の子が人に仕え、足を洗い、自分の命を与えて私たちを神のものとして下さいました。換言すれば、イエス様によって天地の造り主の神様に愛されている自分のありがたさが分かることです。 イエス様はさらに、「わたしがした通りあなたがたもするようにと、模範を示したのである」と言い「隣人の足を洗え」といわれます。隣人の足を洗うとは、隣人と一緒に生きよということです。 あんな人はいなければいいと思い、密かに失墜を願う生き方。その時は隣人が見えていません。生き方が不毛です。それを知っていますから私たちは、なんとか一緒に生きるために隣人の足を洗おうと努力します。しかしそれは逆です。イエス様から足を洗っていただいた事実。そこから押し出されて、初めて隣人の足は洗えるのです。 「あなたがたはこれが分かるか。分かってほしい。分かってその通り行ない、幸いな歩みをしてほしい」とイエス様は言われるのです。 |
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2013年1月6日 「弟子たちの足を洗う」 | ||
聖書:ヨハネによる福音書 1章1〜11節 | 説教: | |
さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。 |
イエス様は父のもとへ移るべき時が来たことを悟り、世にいる弟子達を愛しぬかれました。食事の席で立ち上がり、弟子たちの足を洗われたのです。それはイエス様が人となられ、人を救うことの意味を行動で示したものでした。 ペトロが「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、イエス様は「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりもないことになる」と言われます。 イエス様の洗足の業は究極的な謙遜の姿ですが、私にはもったいないという事ではありません。神様が人を愛しぬかれたことを、マルコは「仕えること」(10:45)、パウロは「神の敵であった時でさえ、その死によって神と和 解させてくださった」(ローマ5:10)こととして記します。 信仰は神様の愛に目 覚めることです。私の知らないところで神様は私を愛して下さっていたのです。何と有り難い、感謝なことでしょう。これが信仰の中心です。 ペトロは「では足だけでなく、手も頭も」と言うと、イエス様は「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と言われます。 私たちはイエス様によって清くされました。洗礼を受けて清められたのです。しかし足は汚れます。足は生活の象徴です。思いと言葉と行いで汚れますが、日々の祭壇で、主日の礼拝ごとにイエス様に差し出して清めていただくのです。 |
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