説教


2013年2月24日 「奇跡の入口」       
聖書:創世記 42章1〜29節    説教: 
ヤコブは、エジプトに穀物があると知って、息子たちに、「どうしてお前たちは顔を見合わせてばかりいるのだ」と言い、更に、「聞くところでは、エジプトには穀物があるというではないか。エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるではないか」と言った。 そこでヨセフの十人の兄たちは、エジプトから穀物を買うために下って行った。 ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄たちに同行させなかった。何か不幸なことが彼の身に起こるといけないと思ったからであった。 イスラエルの息子たちは、他の人々に混じって穀物を買いに出かけた。カナン地方にも飢饉が襲っていたからである。
ところで、ヨセフはエジプトの司政者として、国民に穀物を販売する監督をしていた。ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝した。 ヨセフは一目で兄たちだと気づいたが、そしらぬ振りをして厳しい口調で、「お前たちは、どこからやって来たのか」と問いかけた。
彼らは答えた。「食糧を買うために、カナン地方からやって参りました。」
ヨセフは兄たちだと気づいていたが、兄たちはヨセフとは気づかなかった。 ヨセフは、そのとき、かつて兄たちについて見た夢を思い起こした。
ヨセフは彼らに言った。「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない。」
彼らは答えた。「いいえ、御主君様。僕どもは食糧を買いに来ただけでございます。 わたしどもは皆、ある男の息子で、正直な人間でございます。僕どもは決して回し者などではありません。」
しかしヨセフが、「いや、お前たちはこの国の手薄な所を探りに来たにちがいない」と言うと、 彼らは答えた。
「僕どもは、本当に十二人兄弟で、カナン地方に住むある男の息子たちでございます。末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました。」
すると、ヨセフは言った。「お前たちは回し者だとわたしが言ったのは、そのことだ。 その点について、お前たちを試すことにする。ファラオの命にかけて言う。いちばん末の弟を、ここに来させよ。それまでは、お前たちをここから出すわけにはいかぬ。 お前たちのうち、だれか一人を行かせて、弟を連れて来い。それまでは、お前たちを監禁し、お前たちの言うことが本当かどうか試す。もしそのとおりでなかったら、ファラオの命にかけて言う。お前たちは間違いなく回し者だ。」  
ヨセフは、こうして彼らを三日間、牢獄に監禁しておいた。
三日目になって、ヨセフは彼らに言った。「こうすれば、お前たちの命を助けてやろう。わたしは神を畏れる者だ。 お前たちが本当に正直な人間だというのなら、兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、 末の弟をここへ連れて来い。そうして、お前たちの言い分が確かめられたら、殺されはしない。」彼らは同意して、
互いに言った。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」
すると、ルベンが答えた。「あのときわたしは、『あの子に悪いことをするな』と言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった。だから、あの子の血の報いを受けるのだ。」
彼らはヨセフが聞いているのを知らなかった。ヨセフと兄弟たちの間に、通訳がいたからである。ヨセフは彼らから遠ざかって泣いた。それからまた戻って来て、話をしたうえでシメオンを選び出し、彼らの見ている前で縛り上げた。 ヨセフは人々に命じて、兄たちの袋に穀物を詰め、支払った銀をめいめいの袋に返し、道中の食糧を与えるように指示し、そのとおり実行された。
彼らは穀物をろばに積んでそこを立ち去った。
途中の宿で、一人がろばに餌をやろうとして、自分の袋を開けてみると、袋の口のところに自分の銀があるのを見つけ、
ほかの兄弟たちに言った。「戻されているぞ、わたしの銀が。ほら、わたしの袋の中に。」みんなの者は驚き、互いに震えながら言った。「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは。」
一行はカナン地方にいる父ヤコブのところへ帰って来て、自分たちの身に起こったことをすべて報告した。
   「お父さんはまだ生きておられますか。…わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかしわたしを売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために神がわたしをあなたたちよりも先にお遣わしになったのです」(45:1〜3)
 
恩讐を超え、苦節の20年を経て、この言葉が語られました。この言葉は奇跡です。
はじめヨセフは兄たちが飢饉のため穀物を買い付けに来た時、少年時代の夢の通りのことが起こったことを思い、兄たちの没義道なことを思い返し、せめて弟のベニヤミンとエジプトに住むことを考え、ついに飢えに苦しむヤコブの家族を自分の導きでエジプトに移住させることにまで思いが導かれました。そのあと400年、ヤコブの家族はイスラエル民族へと成長するのです。
 
この心の軌跡には超えなければならない関門がありました。
一つはヨセフ自身の心の整理です。それは兄達の罪です。ヨセフは自分を奴隷に売り飛ばした兄達を忘れることは出来ないのです。穀物を買い付けにきた兄達を執拗に問い続けるのは、故郷の様子を知りたいだけでなく、そのことへの兄達の心も知りたかったのです。
 
もう一つは兄たちの罪です。「我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたときあれほどの苦しみを見ながら耳を貸そうともしなかった」 この兄達の告白を聞いたとき、ヨセフは別室で泣き崩れ、事態は氷解しました。兄たちも自分たちのしたことに苦しみ、それを悔いていたと知ったのです。
 
罪の告白と赦しなしに事は進みません。パンを求めて兄達はエジプトに来ますが、人を本当に生かすのはパンと共に、罪の告白と赦しなのです。

2013年2月17日 「神を見る」      
聖書:ヨハネによる福音書 14章8〜14節    説教: 
 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

  イエス様は最後の時が間近なのを知って、世に残る弟子たちにこれから起こることの意味を教えられました。フィリポは「主よ、わたしたちに御父をお示しください」と改めて問い、主イエスは「わたしを見たものは、父を見たのだ」と言われます。
神を見たいと思うことは、神を信じたい、救いをはっきりさせたいということの別の表現です。
 
 ヨブは身に覚えのない不条理に苦しみますが、最後に神様がヨブに「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責め立てる者よ、答えるがよい」と現れ、ヨブは「あなたのことを、耳にしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」と告白します(ヨブ 45:5)。理不尽な苦しみの意味を探ろうとして苦悩したヨブは、その意味がわからなくても、世界を支配している神様がはっきりわかったのです。それを「神を仰ぎ見た」と言います。それが救いです。
 
神を見るとは、神を知る、神を信じると言い換えてもよいと思います。イエス様が神様と共にあり、イエス様が人と神様のかけ橋で、イエス様を見ることが神様を見ることです。それでもわからなければイエス様の愛の業を見て信じなさいと言われます。そしてイエス様の行う業にあずかっていくのです。
 
ヨハネによる福音書には弟子を宣教のために派遣したり、「あなたがたは行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい」と言う宣教命令はありません。ヨハネによる福音書は「わたしの羊を世話しなさい」という牧会命令です。しかし宣教の勧めがないわけではありません。17節がそうです。マタイの宣教命令には「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方といる」という約束がつき、ヨハネの宣教の勧めには祈りを聞いて下さるという約束が付いています。
イエス様によって救いを知り、自分が救われてわかることは、神を知らない隣人の苦しみです。神の愛の救いを語り、隣人のために祈ります。伝道とは隣人に神の愛を祈ることなのです。  
 

2013年2月10日 「クォ・ヴァディス(主よ、いずこに)」     
聖書:ヨハネによる福音書 14章1〜7節    説教: 
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
 
トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
 
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
  イエス様を取り巻く雰囲気は日増しに暗くなり、不安の中にいる弟子たちに主イエスは言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」
 一言ひとこと念を押すように、イエス様の死が、離別ではなく父なる神様のもとに住居を備えにゆくもので、神様のもとにあなたがたもいることができるためのものと言われます。
 
 それを聞いてもトマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と問い直します。
同じことをペトロも問うていますがニュアンスは違います。ペトロの問いは単純です。トマスにとってはイエス様の十字架の道が分からないのではありません。十字架の意味がわかった上で、「主よ、いずこに」と問うのは、それが本当に救いなのですかという根本的な問いなのです。
 ロシアやドイツといった大国に翻弄されていたポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチはトマスと同じ問いで13章36節のペトロの問いから「クォ・ヴァディス」という本を著しました。圧倒する悪の力の前で、目を覆いたくなる悲しみの前で、十字架への道が本当に救いなのですかという問いです。
 
「わたしは道であり、真理であり、命である」とイエス様は言われます。人に仕え、足を洗い、力ではなく愛と赦しの支配。目の前に圧倒的な悪の力や自然の猛威の前でも、わたしの教え、わたしの生き方、わたし自身が道、そのわたしを通ることが真理であり命なのだと主は言われます。わたしたちは2000年愚直にそれに従いこれからも従うのです。 
 

2013年2月3日 「互いに愛し合いなさい」  
聖書:ヨハネによる福音書 13章31〜38節   説教:
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
 
シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」 イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」


  「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」
    
愛し合うことは何も新しい掟ではありません。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19・18)と言われていますから、ユダヤ人ならだれでも知っている掟です。「わたしが愛したように」というイエス様の愛の根拠と程度に新しさがあります。
 
私たちは憎み合う辛さと、愛し合う喜びを知っています。それでも愛せないのです。「人類を愛するという崇高な理念のために涙を流さんばかりの人が、目の前のお婆さんを、それもただ鼻をグスグス言わせてうるさいというそれだけの理由で憎む」とドフトエフスキーは言っています。イエス様が私たちを愛してくださったその根拠から押しだされて愛するのです。
「いつも夫婦喧嘩をしているわけではないが、時には言い争い、そんな時後になって考えると、いつも相手を決めつけ、断定した言い方をしている。あなたはいつもそうだと言う。そこには相手の気持ちを理解しようとする心がない。そうだったのかという言葉はない」 
ありのままを受け入れて下さったイエス様に押し出されて、私は変えられていくのです。
 
イエス様は自分が世を去るときが近づいたことを知り、世に残る弟子たちにどう生きたらよいか新しい掟を与えられました。これは人を縛るものではなく、皆で一緒に生きるための慰めに満ちた掟です。いがみ合いけなし合って生きるのでなく、愛し配慮し合う生き方に生きる手ごたえがあるからです。