2013年3月31日 「夜明けの光の中で」 | ||
聖書:ヨハネによる福音書 21章1〜14節 | 説教: | |
その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。 |
イエス様が十字架につけられ三日目の日曜の朝甦られ、ルカ福音書はエルサレムで(24章)、マタイ福音書ではガリラヤで(28章)弟子たちに現われます。ヨハネ福音書は20章でエルサレム、21章ではガリラヤで弟子たちに現われる様子を記しています。 弟子たちはよみがえられたイエス様に会いましたが(20章)、まだ新しい使命が与えられていませんでしたので、とりあえずもとの仕事の漁師にもどりました。ところが、お手の物だった漁はうまくゆかず、その夜は疲れだけが残り徒労に終わりました。 90メートルほど離れた岸辺からイエス様は問われました。「子たちよ、何か食べる物はあるか。」「ありません。」「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」 そこで弟子たちが網を打ってみると、魚があまりに多くて、もはや網を引き上げることができなかったのでした。 かつて弟子たちは似たような経験しました(ルカ5章)。それに気づいたヨハネがペトロに「主だ」と言うと、少しでも早くイエス様に会いたいペトロは上着を身にまとい、湖にとびこんだのでした。 弟子たちは夜中じゅう網を打ち続けました。右側にも左側にも前にも後ろにも網を打ったに違いありません。努力がなく工夫がなかったのでもありません。 甦りのイエス様がそこにおられます。私たちのかたわらで見てくださっています。そのイエス様を知って、そのお言葉に従うかどうかです。実を結ばないはずはないのです。まして時が来れば。 この光景をこんな素敵な言葉で表している方がいます。「主イエスが甦られたのは、わたしたちの命を神の光の中に置くためでした。朝の光の中に包み込むためでした。気がつけば弟子たちが夜明けの光の中にいたように、わたしたちもキリストの光の中にいるのです。贖われ、愛された者としてキリストがそばにいてくださるのです。私たちはそれぞれの網を、自分に託された命の網を精いっぱい、これからも打ち続けたいと思います」 |
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2013年3月24日 「見よ、この男だ」 | ||
聖書:ヨハネによる福音書 19章1〜16A節 | 説教: | |
そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。 しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。 |
ピラトはユダヤ人が訴えてきたイエス様を一目見ると、死罪に値する人ではなく、宗教的なことでユダヤ教団の反感をかって訴えられたものだと見てとりました。ピラトは祭りのたびに囚人が一人釈放される習慣を用いてイエス様を赦そうとしましたがそれはできませんでした。 そこで群衆の情に訴えて赦そうとしました。 「見よ、この男だ」と言って鞭打たれたイエス様をピラトが人々にさらすと、「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と人々は叫びます。 無慈悲なピラトが何とかイエス様を赦そうとし、信仰に生きているはずのユダヤ人達が画策して十字架につけようとします。ピラトはそれ以上自分のメンツにこだわると騒ぎになることを見てとり、ユダヤ人たちに皮肉を浴びせてイエス様を十字架につけるために引き渡しました。 人は自分中心です。人は自分に仕え、自分中心という鉄の憲法を持っています。人は意に沿わない隣人を愛することも赦すこともできないのです。自分の都合のいいことは受け入れますが、少しでも自分が干渉され、利に反するとなると牙を剥くのです。よかれと思ってしたことも誤解を受け、善意の忠告も逆恨みされます。ピラトやユダヤ人たちもそうですし、私たちも同じです。 神様の最高の善意は最大の誤解を受け、神の独り子が敵意をもって十字架に付けられました。しかし善意は挫折しません。これによって神様の救いがなったのです。 人は隣人を愛したり赦したりはできないのです。理解できると思うのは傲慢です。 赦すのでなく赦され、愛するのでなく愛されていることを知る、これが聖書の教えの根本です。「見よ、この男だ」とさらされ、人の罪と罪の赦しが凝縮されたイエス様を見続けるのが信仰です。 |
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2013年3月17日 「実を結ぶ人生」 | ||
聖書:ヨハネによる福音書 15章1〜10節 | 説教: | |
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 |
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何一つできないからである」 イエス様と私たち信者の関係は、的確で、簡潔なこれにつきます。 「つながる」とは、「住む」「留まる」とも訳せる言葉です。私の信心というか細い糸でかろうじて繋がっているのではなく、イエス様が私の内に住み、私もイエス様の中に留まることです。それは何より、キリストの身体なる教会に繋がり、礼拝で御言葉に聞き続けることです。つながり続ければ必ず実を結びます。離れれば、実を結ばないだけでなく、枯れて捨てられます。 結ぶ「実」は、私の内に成る聖霊の実で「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22) キリストにあって結ぶその実は、本人にとって幸いですが、周りの人に提供できる良いものです。その人も豊かにされ、周りの人も神様の祝福に与れる良きものです。 イエス様に繋がっていれば必ず実を結ぶのですが、それは神様の栄光を表すためです。すばらしいとその人がほめられるのではなく、その人を生かす神様が誉められるためです。 これを忘れると信仰の本当の喜びを味わえません。 |
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2013年3月10日 「キリストの平安に生きる」 | ||
聖書:ヨハネによる福音書 14章25〜31節 | 説教: | |
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。 さあ、立て。ここから出かけよう。」 |
「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」 この世が与える平和(平安)は、争いがなく、不安のないことかもしれません。それは何と脆弱で一時のことでしょう。生きている限りそんなことはあり得ません。イエス様の与えて下さる平安は、外側の平和ではなく、十字架を通して私たちを神様と隣人に和解させ、神様の愛の中で生かして下さる内側から来る平安です。 子どもが車に十メートルも飛ばされ、医師も看護婦も目撃者皆が死を予想しても、信仰者の母だけには平安がありました。テキパキと処置をして、良い医者の手当てもあって後遺症もなく子どもは癒されました。この時の平安は聖霊の導きです。 信仰者が皆この母のようなわけではありません。幼い子を残して若い父が亡くなり、信仰者の母は神様のお心がわからなくなったそうですが、長い時の中で教会学校の時覚えた「神は真実です。耐えられない試練に会わせることはなく、逃れる道も備えてくださる」(1コリント10:13)とのお言葉に導かれ、「矢張り神様は最も良い時に最も良い事をして下さった」という平安に導かれました。これも聖霊の導きです。 病気や事故も平安を奪いますが、いらだちや怒りもそうです。悪を行なってうまく立ち回る人が罰せられない時、更に、悪をもって関わられた時のいらだち。その時、悪に悪を返さず、かえって神様の祝福を祈って報いられる平安。これも聖霊の導きです。 |
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2013年3月3日 「聖霊の内なる導き」 | ||
聖書:ヨハネによる福音書 14章15〜24節 | 説教: | |
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。 |
「イスカリオテでない方のユダが、『主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか』と言った。
イエスはこう答えて言われた。『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。』」
イスカリオテでないユダの気持ちはわかります。ユダにすれば、イエス様のしてくださったこと、これからしようとしていることもわかり、それならなぜそれが世の中に伝わらないのですかというのです。これは小さな群れで、伝道の不振にあえぐ私たちの思いでもあります。 イエス様は私たちをその生涯をかけて愛してくださいました。私たちはその愛に目が開かれ、それに応えます。イエス様を信じるということは、私たちがイエス様を愛することなのです。この世は、イエス様の愛を知らず、イエス様を愛することも知りません。 私たちは伝道の秘策をもっていません。イエス様の愛に生かされて、隣人を愛することでイエス様の愛に応えると、イエス様がその人と一緒にいてくださいます。 いつも傍らにいて私たちを弁護し、内側から導いてくださる聖霊の導きの中でイエス様のお言葉を伝える。すると私たちの言葉を通して神様の業がその人のうちに起ります。伝道は神様の業です。これに徹することです。 |
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