説教


2013年4月28日 「神の御業の現れるため」     
聖書:創世記 45章1〜15節    説教: 
 ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。 ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。
 
ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」
兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。

ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。
しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。
神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。
わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。
 
急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。 そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。 そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。』
さあ、お兄さんたちも、弟のベニヤミンも、自分の目で見てください。ほかならぬわたしがあなたたちに言っているのです。
エジプトでわたしが受けているすべての栄誉と、あなたたちが見たすべてのことを父上に話してください。そして、急いで父上をここへ連れて来てください。」
 
ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。 ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。
  「私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私 をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです」
 
 この言葉はヨセフの生涯のハイライトです。
ヨセフの生涯は、その生涯が神様の業に組み込まれていたことをヨセフが知って、初めて得心がいきます。その一点で、彼の生涯の全ての辻褄があい、その一つひとつが光って意味をもって来るのです。
 
鼻っ柱の強い少年時代、兄たちから奴隷として売られ、やっとエジプトで足場を築き、主人の奥さんに足元をすくわれ、投獄、無視、それらの一つひとつがあって、彼の努力と才能もあって、初めてエジプトの宰相となり、飢饉の兄達を救うことが出来たのです。そのカギは視点の転換です。

 私たちの生涯は、幸か不幸か、得か損かという自分の視野だけで見ていてはわかりません。せいぜい恨みを晴らし、人を見返す自己満足だけです。
 私の生涯は神様と結びついて光り、意味が出てきます。人生はわたしにとって意味があるかどうかではなく、神様にとって私の人生はどういう意味があるのかと、視点を変えられることです。そこで初めて、あの涙、その苦労も喜びも、人生そのものも光るのです(ヨハネ9章)。
 

2013年4月21日 「キリストの証人」     
聖書:ヨハネによる福音書 15章18〜27節    説教:  
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
 
わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
  ヨハネによる福音書 15章1-10節は、私たちとイエス様の関係、11-17節はイエス様を信じる信仰者同士の関係、18-27節はイエス様を信じる者とこの世の関係、迫害の予告・その理由・それへの対処の仕方が記されています。
 
信仰者は、この世の原理に従って生きるところからイエス様のお心に従う生活に選び出されたのです。自分中心の世の中と信仰者の軋轢(あつれき)は当然のことなのです。
ヨハネによる福音書の中心は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」です。肉の欲、目の欲、生活のおごり(ヨハネの手紙一 2:16)に生きるこの世はイエス様を憎みます。その憎む者を愛するためにイエス様は来てくださいました。
 
 イエス様は「僕は主人に勝りはしない」と言われました。僕は主人に勝る者ではないので、自分の判断で行動するのではなく、主人の考え通りに行動せよと言われます。世があなたがたを憎んだら、憎む者を愛しぬかれたイエス様を憎んでいると知りなさい。憎まれたら憎み返すのではなく、主人の考え通りにしなさいというのです。
 
 私たちが主人イエス様のお心に従おうとすれば、イエス様のお心を聖霊がお教え下さり、私たちを励まして下さいます。従おうとしなければわかりませんが従ってみればわかります。
 私たちはイエス様の愛の証人として押し出されていくのです。

2013年4月14日 「共に福音にあずかる」     
聖書:コリントの信徒への手紙一 9章10〜23節    説教: 
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
 
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。



 
  「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」
 
伝道を考える時まず自由から出発します。伝道は立つべきところに立つところから来る自由な業です。伝道は自分の主張を押し付けたり、ただ相手に合わせることではありません。
 
自分を目の瞳のように愛し、ありのまま受け入れ、神様の恵みの内に生かし続けてくださっている救い。ここに立っているので、これを伝えるために王様のようにも僕のようにも相手に接することができるのです。
以下の言葉に、パウロの伝道への気迫、その姿勢、意気込み、熱意が現れています
「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」
 
パウロはここで、私が救われるためにはどんなことでもします、というのではありません。キリストの救いの中に入れられているのでそれを伝えるためにどんなことでもするのです。しかし、実は伝えることはさらに救いの恵みを確認することでもあるのです。
 
具体的には、各自が救われた生き方を言葉と行動において証しますが、教会においては真実な礼拝が捧げられていること(自分が礼拝を守れることが喜びであるだけでなく求道者が礼拝に出て襟を正されるような礼拝)。教会の伝道の業に自分のこととして関わり、教会の子どもたちを育てることで確認してゆきます。

2013年4月7日 「喜びに生きる」  
聖書:ヨハネによる福音書 15章11〜17節   説教:
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


  15:11〜17も、あとに残る弟子たちへのイエス様の言葉です。     
生きる手応えは「喜び」の中にあります。楽しみの中ではありません。おいしいものを食べ、きれいな服をきたりする「物」にもありません。それは自己満足、自分一人の世界です。
生きる深い喜びは愛し愛され、配慮し配慮される人格関係のなかにあるのです。
私たちが信仰をもち、イエス様の後に従うのは、「わたし(イエス様)の喜びがあなたがた(私たち)の内にあり、あなたがた(私たち)の喜びが満たされるため」なのです。
 
 私たちは選ばれ、愛され、友として扱われ(奴隷は主人の心を知りません。私たちはイエス様から神様の愛のお心を残りなく教えられ、それで友なのです)、おかれたところで愛の実を結び、生きる喜びに満たされる、このために信仰が与えられました。
 もし神様の選びがなければ、自分の気に入ったことだけを選択し、意味がないと思えることを捨ててしまい、いつも目先のことで右往左往していたことでしょう。
 もし神様から愛されていることに気付かなければ、いつも我がままで自分中心の愛に終始していたことでしょう。
 
 イエス様によって神様のお心が教えられ、愛の実を結ぶ生活へ押し出され、イエス様の名によって祈れる。それは私たちが喜びに生きるためです。愛し合うことは喜びに生きる秘訣です。そう生きることがイエス様のご命令なのです。