説教


2013年5月26日 「全てを良きに変える神」     
聖書:創世記 50:15〜21節    説教:  
 ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。

そこで、人を介してヨセフに言った。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」
 
これを聞いて、ヨセフは涙を流した。 やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、 ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
 
あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。 どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。




  兄弟たちは父ヤコブが亡くなると、父の遺言を創作してヨセフに罪の赦しを請いました。人は二十年経っても罪を引きずっているのです。
それを聞くとヨセフは声を上げて泣き、言いました。「恐れることはありません。私が神に代わることが出来ましょうか。あなた方は私に悪をたくらみましたが、神はそれを良きに変え…」と。
 
ヨセフは、兄達が自分を奴隷に売り飛ばしたことを忘れたわけではありません。宰相になるまでの苦しかった二十年に目をつぶったわけでもありません。「あなた方は私に悪をたくらみましたが」という言葉が、それを表しています。しかしヨセフは、それを良きに変えて下さる神様を知っていたのです。
 
悪をしてもいいというのではありません。人は必ずそれを刈り取ります。しかし、神様は、神様を愛する人を、その思いや行動を越えて万事が益となるように変えてくださいます(ローマ8:28)。
信仰は道徳ではありません。重なるところも多くありますが、単なる勧善懲悪、因果応報の教えではありません。信仰は教えではなく、必ず良きに変えてくださる生ける愛の神様を見て、お従いしていく生き方です。 
 
 この話で創世記が終わっていることは大変大切です。創世記は天地創造、人の創造と罪による神と人間同士の交わりの喪失、神の救いを担うアブラハムとその末の選びの物語です。どうしたら罪から人類が救われるか、そして一緒に生きられるか、ヨセフの生涯はそれを見事にさし示しています。

2013年5月19日 「勇気を出しなさい」     
聖書:ヨハネによる福音書 16章25〜33節   説教: 
「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
 
弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」

イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

   イエス様から、その日(ペンテコステ)が来ての神様との考えられない深い祈りの交わりを聞いた弟子たちは、信仰を告白します。
しかしイエス様は言われます「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしを一人きりにする時が来る」     
その通りのことが弟子たちに起こりました。ゲッセマネの園で弟子たちはちりぢりに逃げ去り、ペトロは女中の言葉にイエス様を裏切り、失意のうちにガリラヤの家に帰ったのでした。
 
信仰にはどうしてもこの挫折が必要です。自分の誠実さと決別する時です。自分の愛と真実の背後に、破れと醜さのあることをイヤというほど知らされる時です。
 
[苦しみを通らない喜びはやがて悲しみの終わる、しかし悲しみを通った喜びは再び悲しみに変わることはない。病むまでの健康でなく、病み抜いた健康。失敗するまでの成功でなく、失敗を克服した成功。穢れるまでの清さでなく、穢れから立ち上がる清さを私たちは主から求めよう。主は喜んで世の罪を担い、苦しみを受け、ひとたび陰府に下り、甦られたのだから」(深津文雄[カニタ−更生施設−通信]より)
 
ここで初めて、そんな私を受け入れてくださっているイエス様を仰ぎます。この時この言葉を聞くのです。「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」
 
生きている限り苦しみがついてきます。苦しみが無くなることが信仰ではなく、それに勝たせるのが信仰です。その際、私の誠実さに裏打ちされた信仰ではなく、世に勝たれたイエス様が先導してくださり、その後についてゆく信仰です。神様との深い祈りの交わりの中で。

2013年5月12日 「悲しみを突き抜けて歓喜へ」     
聖書:ヨハネによる福音書 16章16〜24節    説教: 
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
 
ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」


 
   「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」「女が子供を産むとき、苦しむものだ。…子供が生まれると…喜ぶ。」
 
大きな苦しみの後には喜びがあります。逆に言えば、本当の喜びの前には苦しみがあるのです。人生で、苦しまずに喜ぶだけを得ることはありえません。イエス様はそんなことは説きません。子育ての苦しみをしないで可愛さだけを味わうことは、出来ない相談です。
これは信仰も同じです。信仰に生きればつらい時もあります。神様のお心に踏みとどまらないので恵みが分からないのです。苦しいことがあって、神様の御手の中でそれを受けとめなければ、神様の喜びは分かりません。
                                  
御心に従い、御心に踏み止まるところにはつらさがあります。実はそこに神様が働いて、喜びへと変えて下さるのです。十字架の後には必ず神様の復活があります。十字架のないところには復活はないのです。
 
 この喜び、「わたしたちから奪い去られない喜び」については、聖書の中の指輪の宝石と言われているローマ書8章31節ー38節でパウロが高らかに歌い上げています。
「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。わたしは確信しています。どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 
私たちも信仰に立つので苦しいこともありますが、祈ることができ、苦しみは喜びに変えられます。そして最後は、神様の愛からどんなことがあっても私は引き離されるされることはないという喜びに導かれるのです。

2013年5月5日 「助け主の働き」  
聖書:ヨハネによる福音書 16章1〜15節   説教:
これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。
人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。
しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」
  
「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、
また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
 
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
  イエス様は、自分が地上を去った後、迫害に身をさらされる弟子たちを考えて、「その方がくれば、罪について、義について、裁きについて世の誤りを明らかにする」と、聖霊の導きの約束をされました。
 
「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」
罪を認めることから救いは始まりますが、人は自分の罪を認めることが出来ません。自分のしたことの証拠を突きつけられて渋々認めますが、心からそれを認めたのではなく、誰でもしていること、見つかったのは運が悪かったとうそぶきます。聖霊はそれを知らせます。偽りの上には本当の生き方がないからです。
最大の罪は、自分の罪行を知る以上に、その罪を赦して下さっているイエス様を認めないことです。
 
「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」
イエス様は十字架に架かり、甦り、天に昇られ、(人の目には見えなくなり)、私たちを神の子とし、死を越える命に導いて下さいました。神様の義は獲得するものではなく、与えられるものなのです。
 
「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されること」
神様の愛を信じるのでしょうか、それとも神の愛など信じないでもやっていけると思って、自分の力を信じ、僥倖を願って生きるのでしょうか。イエス様は、世を支配する力を愛をもって砕いて下さったのです。
 
聖霊は私たちに、罪と義と裁きを知らせます。実はそれはイエス様の救いを語り続けてくださっていることです。
もし私たちが日々に働く聖霊の助けを信じないで、そのお働きに身を委ねないのであれば、私たちの信仰は気休めにすぎません。