説教


2013年6月30日 「しかし、勇気を出しなさい」       
聖書:ヨハネによる福音書 16章25〜33節   説教:  
「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
 
弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
 
イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
 
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

   「あなたがたは、世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」
 
生きている限り苦しみがついてきます。肉体は年とともに衰え、景気不景気の波は社会全体を覆います。例外はありません。生きる勇気が必要でない人は一人もいません。その勇気をどこから手に入れるのでしょうか。
 
自分を鼓舞して苦しみに立ち向かう。また友人の言葉に励まされることもあります。しかし、「人間は一生のうち何度かは魂からそこの落ちる経験をする」(フォーサイス)のです。
苦しみが無くなることが信仰ではなく、それに勝たせるのが信仰です。それは、世に勝たれたイエス様が先導してくださり、その後についてゆく信仰です。
 
「チャンピオン」とは「その道の第一人者」という意味だけでなく、「ある人のために戦ったり議論する人」との意味があるそうです。(大江健三郎『チャンピオンの定義』)これはイエス様のしてくださったことに通じます。
世の中は、自分が一人で闘って勝つか負けるかでなく、チャンピオンがいるのです。皆に代わって罪と死を一身に十字架で引き受けて戦い、この世界に神様の愛の勝利を明らかにしてくださいました。
 
このキリストの後に従うことは臆病な人のすることではなく、だれにでもある魂からそこの落ちる経験をもつ者を奮い立たせる勇気なのです。


 

2013年6月23日 「私である」      
 聖書:ヨハネによる福音書 18章1〜11節    説教: 
こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
 
シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

   イエス様は弟子に遺す言葉を語り、祈ったあと、ゲッセマネの園に行かれました。いつもなさっていたことですし、ユダもそれを知っていて、ユダがイエス様を捕縛する人々を連れてくることも分かっていてのことでした。
祭司長達は、日中、人目のあるところでイエス様を逮捕すれば不測の事態が起こることから、ユダの密告によるゲッセマネでの逮捕は願ってもないことでした。それで万全を期して逃亡することも考えて、大挙して逮捕に向かわせたのでした。  
 
一行が近付くとイエス様の方から問われます。「だれを捜しているのか」「ナザレのイエスだ」「わたしである」意表を衝かれ、その権威に打たれて逮捕にきた者達は地に倒れますが、あっけない逮捕でした。
 
ヨハネは、自ら捕縛され、力強く神様の御心を遂行されるイエス様を証しします。決して弱々しくなく、自ら十字架に座標をあわせ、私たちに代わって苦しみ救いを遂行されるイエス様です。
 イエス様はこれまでも「わたしは命のパンである」(6:51)「わたしはある」(8:58)と言われ、それは神様がモーセに現われた神(出エジプト3:14)と同じです。
信仰は「恐れてはならない。落ち着いて今日あなたたちのために行われる救いを見なさい。主があなたたちのたに戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」( (出エジプト15:14)と言われる主を見据えて生きることです。
 
打ち続く苦しみや、隣人の心ない言葉の仕打ちによって信仰に陰りが見え、神様の愛に疑いを持ってしまう私たち、その先頭に立って下さっているのはこのイエス様です。救いは私が獲得するものではなく、イエス様によって与えられます。私はそれに従うのです。

2013年6月16日 「一つとなる」     
聖書:ヨハネによる福音書 17章20〜26節    説教: 
また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」


   イエス様の最後の祈りは、弟子たちの証によって御言葉を信じる者が一つとなることです。赦しの中で一緒に生きること、これがイエス様の来臨の目的でもあります。
 
人は一緒でなければ生きられません。しかし一緒になれば必ず分裂が起こります。人は皆、自分の主張を持ち、自分の正義と思惑があり、人の集まるところには利害と好みが交差するからです。
人は一つになろうと思って出来るわけではありません。憎しみと力の伴う恐怖は人を一つにします。しかしそれが取り去られと、もっとすごい憎しみがふきでてきます。
 
人を本当に一つにするのは「敵意という隔ての中垣」が吸い取られることによります。イエス様は、赦されるはずのない醜い私を赦して愛を示し、その愛を私の隣人にも注いで下さいました。イエス様の私と隣人への愛、そのような仕方で「憎しみの隔ての中垣」を吸い取ってくださいました。教会は、神様が私たちのためにイエス様を遣わして命を捧げて下さった、ここに生きる根拠と動機と目的を置きます。ここに立つかどうか、それが他のグループとの違いです。
 
 世界が愛によって一つとなることはイエス様の祈りです。しかし二千年たってもまだ実現せず、現実は益々キナ臭くなっています。しかしこれはイエス様の究極の祈りで、これが実現しないはずはありません。私たちも赦しと愛と神様の平安を持ち運ぶのです。

 
2013年6月9日 「執り成しの中で生きる」     
聖書:ヨハネによる福音書 17章6〜19節   説教: 
 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。
わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。
  17章6節〜19節は世に残る弟子たちのための祈りです。イエス様から神様を知らされ、み言葉を受け入れた弟子たちが、神のものとして生き続けるために守ってください、という祈りです。
 「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。…わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」
 
 執り成してくれる者を持つ人はなんと幸いなことでしょう。私たちは、問題を起こすその人に説教をしたり注意をすることが大切だと思っていますし、それが有効な場合もあります。しかし聞く耳を持たない人にとってはうるさいだけなのです。大切なのはその人を気遣い取り成すことです。   
 この世では苦難があります。いつまでも晴れない黒雲、様々な苦しみ、神は愛というより神の罰と
しか思えない現実。私たちが「守られる」というのは、そういう絶望させ、自棄を起こさせる「悪い
者」(サタン)の働きから、神様の愛に立ち続けられるように守られることです。
そんな私たちのために執り成し続けてくれる者をもつ。人生の豊かさとは、執り成して下さる方を
持ち、それを知る豊かさです。 
 
 神様の愛と希望に立ち続けられること、それは私にとってだけ幸いなことではありません。周りの者も生かします。家族の代表としてこれを聞きます。これを持って教会から家庭に帰ります。
 
ここに信仰者である私のいる意味があります。私は取り成され、私も取り成す者として生きます。
 

2013年6月2日 「永遠の命に生きる」  
聖書:ヨハネによる福音書 17章1〜5節   説教:
イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。



  13章〜16章は最後の晩餐の席上での説教、17章は大祭司イエス様の祈りです。17章1節〜5節はご自身のため、6節〜19節は世に残る弟子たちのため、20節〜26節はこの世のすべての者のための祈りです。 
 
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」
 
私たちの命は罪にまみれ、死を背負い、弱さと破れに満ちています。永遠の命は、いつまでもつづく命と考えたくなりますが、時の長さでなく質です。神様に結びついた救われた者の命ということです。地上にあっては神様の愛の導きを信じて喜びをもって生き、地上を越えては神様の御手のなかに憩う命です。
 
この命は、ただ知的に神様やイエス様を知ることではなく、イエス様との人格的な結合です。「わたしは命のパン」「わたしの与える水を飲むものは乾くことがない」「わたしは良い羊飼い」「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われたイエス様を食べ、飲み、導かれ、命のつながりをもつことです。イエス様の内に生きることです。
イエス様は私たちにこれをお与え下さるために、痛ましい十字架の栄光(神様が神様として私たちに分かること)を祈られました。感謝!