説教


2013年7月28日 「歴史を導く神」     
聖書:出エジプト記 1章1節〜2章10節    説教:  
ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。 ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた。
ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、 イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。 そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。
「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」
エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。 しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、 イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。
 
エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。 「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」 助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。 エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」 助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」 神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。 助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。
 
ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」
 
レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。 彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
 
その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。 そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」
「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。 王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、 その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」
  アブラハム、イサク、ヤコブと続くイスラエルの民は、ヤコブのときに未曾有の飢饉に見舞われ、ヤコブの子ヨセフの導きでエジプトの下りました。はじめ70人で移住しましたが400年経て603,550人口になりました。
 
ヒクソス王朝(生粋のエジプト人ではなくヘブライ人に近いセム系の王朝)が倒されラメセス王朝が樹立されると、エジプトの王ファラオは、家族から民族へ成長したイスラエルに脅威を感じ、圧迫しました。
手始めに、ヨセフ時の与えられていた権利を剥奪し、レンガ作りなどの重労働に使役しました。それでもイスラエルの人口は増え続けました。それため王は助産婦に「男ならば殺し、女ならば生かしておけ」と命じますが、神を畏れる助産婦たちにそれを上手にかわされると、「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」と命じました。
 
ファラオは追い詰めたと思い、イスラエルは追い詰められたと思いました。しかしファラオの言葉をそのまま用いて、神様は御業を行なわれます。
 
籠に入れられ、ファラオの命令通りにナイル川に流された男の子をファラオの娘がすくいあげ、自分の子とします。
長じてはファラオの娘の子としてエジプトの学問と帝王学がほどこされます。エジプトからイスラエルを導きだした「モーセ」(「水の中から引き上げる」の意)はこのようにしてととのえられたのです。
更にこの後リュウエルの下で40年暮らし、シナイ半島を含むミディアンの荒野を羊飼いとして知りつくしたのでした。
このような準備の下で出エジプト、約束の地への旅の備えは出来ました。
モーセに乳を与えた母ヨケベトの役割も不可欠な準備です。男の子の行く末を案じた姉ミリアムの機転で実の母ヨケベトが乳母となりました。母は母乳と共にモーセにヘブライ人の自覚と信仰を必死で伝えたに違いありません。
 
シフラやプアと言う助産婦、モーセの両親のアムラムやヨケベト、機転のきいた姉のミリアム、川に流されたモーセを不憫に思ってすくいあげたファラオの娘。これらの人々はファラオの前には皆小さな芥子粒のような存在と業ですしかしそれらが積み重なって神様の大きな業が引き起こされました。
 
絶望、困難、行き詰まりは人が見てのことであって、神様の業はそこから始まります。
この神様の愛と力に満ちた歴史(人生)に働く神様の御手が見えていますか。



2013年7月21日 「真理とは何か」      
聖書:ヨハネによる福音書18章28〜40節     説教: 
 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
ピラトは言った。「真理とは何か。」
 
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。 ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
  「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人はみな、わたしの声を聞く」
 
自らも大祭司であったアンナス(カイアファの舅)と大祭司カイアファの宗教裁判によって死刑の判決を受け、ローマの総督ピラトから政治裁判を受けて死刑の執行が許可されました。
 イエス様は無茶苦茶に十字架に架けられたのではありません。裁判で裁かれた結果です。裁判は法に基づき、法には正義や真理の裏付けがあるはずです。その法、正義、真理とはなんでしょうか。
 
祭司長達は汚れないで過越祭の食事をするために異邦人ピラトの官邸には入りませんが、一方では、イエス様の代わりに、神の法を破った強盗のバラバの釈放を求めました。自分たちの聖さや秩序を守るため、自分たちが考える法と正義に従ってイエス様を十字架に掛ける判決を下したのです。
ピラトにとって真理とは、ローマの権威に裏打ちされた力でした。しかしその力は、イエス様の無罪を信じていてもユダヤ人の言いなりになってしまう力なのです。
 
祭司長達やピラトの最大の間違いは、自分達は真理を持っており、真理に従って裁けると思い、それを実行したことでした。人は真理を持っていないのです。自分が考える真理に従って人を裁き、ことを決める恐ろしさ。私たちの周りに有る没義道はここから来ます。
 
自分の考えや保身から来る真理ではなく、イエス様の愛と赦しの真理に聞きつつことを決定できないでしょうか。
現実から真理を考えるのではなく、イエス様の愛と赦しと一緒に生きるという真理から現実を考えられないでしょうか。

 
 

2013年7月14日 「善意のおせっかい」     
聖書:ヨハネによる福音書18章15〜27節    説教: 
 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
 
大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
 
シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
  ヨハネ福音書は、アンナスもとでのイエス様の裁判の様子と並行してペトロの裏切りを記します。
門番の女中に見とがめられ、中庭にいる人々や耳を切り落としたマルコスの身内の者からイエス様との関係を指摘され、鶏が鳴く前に三度、イエス様を否定してしまうペトロの姿です。

イエス様はゲッセマネの園で「わたしを捜しているのならこの人々を去らせなさい」と言って弟子たちに道を開いているのに、ペトロは剣でマルコスに切り付け、わざわざアンナスの中庭にまで入ってイエス様を裏切ってしまいます。


ペトロの失敗はすべての福音書に記されていますが、共観福音書はペトロがイエス様との関係を否定して鶏が鳴き、泣き崩れるペトロの姿を記します。その涙はペトロの新生のための「涙の賜物」で、ユダにはそれがありません。ヨハネ福音書にはペトロの「涙の賜物」の記述はありませんが、共観福音書にはないティベリヤ湖畔で甦られたイエス様の愛にペトロが身を委ねる記述
があります。
 
善意や熱心であればなにをしてもいいのではありません。善意であるだけにこれが厄介で、人の落し穴です。自分の正義観や情熱から、人は神様が命じている以上のことをしてしまい、かえって神様の業を妨害したり、自分が窮地に陥ったりします。
 
神様は、祭司長達の悪意さえ用いて御業を行なわれます。人の誠実や自分の正義によって神様の業は行われるのでもありません。神様の業は必ずなります。それは人が手助けして創り出していくものではなく神様から与えられるものです。進みゆく神様の業、神様の愛と赦しに身を委ねてお従いしていくものなのです。  
                                   

2013年7月7日 「真っ向勝負」  
聖書:ヨハネによる福音書18章12〜24節   説教:
そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。

シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
 
アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
  イエス様は、ゲッセマネで捕縛されると分かって出掛け、祭司長達はそこへ行けば捕縛できると分かって下役を送ります。実力者アンナス(大祭司カイアファの舅)は、既に決めていたように死刑にするために傲然とイエス様を尋問し、イエス様も、少しも臆することなく彼の前に立ちます。
祭司長達もイエス様も同じ方向を向いています。イエス様は神様のお心に従ってそれを行ない、大祭司達も自分達の考える正義を貫くためにそれを行ないます。
    
祭司長達は自分たちの立つ正義でイエス様を裁きます。自分たちが間違っているとは少しも思いませんし、裁きをおこないます。
「一人の人間が民の代わりに死ぬほうが好都合だ」と、かつてカイアファは言いました。イエス様の贖罪の死を言ったものではなく、一人の人を抹殺して皆のための犠牲にしようという自分中心の思いを言い、それを実行しました。
そしてイエス様も神様のみ心を行って彼らの正義に真っ向勝負を挑みます。
 
大祭司たちが勝ったように見えます。しかし祭司長達の思惑を越えて、イエス様のそれらを包み込む神様の愛と赦しの意志が全てを覆っているのです。
 
ある神学者がロダンの彫刻を見て衝撃を受けました。地球を大きな手ががっちりつかみ、容赦のない運命の手をそこに見たからでした。神学者は衝撃を受けてそこをうごけなかったそうです。そこに年を取った夫婦が来て、その彫刻を見て「ああ神様の御手ね」と言い、お連れ合いも深くうなずいて通りすぎたそうです。悪の力がつかんでいても、神の御手もこの世界をつかんでいるのです。