説教


2013年8月25日 「使命に生きる」     
聖書:出エジプト記 3章1〜10節    説教: 
 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。
そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。
モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
 
主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
 
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。
それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
 
見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。
今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

  ナチスにユダヤ人というだけで捕らえられ、強制収容所に収容され、そこでの生活を克明に記録した「夜と霧」という本の中で、フランクルはこう言う意味のことを記しています。
「人が本当に求めているものは、快楽でも権力でもなく、生きることの意味だ」「収容所の中で多くの人は、価値を具現化する真の可能性はまだ先にあると考えた。しかし実際は、この可能性は収容所の、この生活から生じるものの中にあった。多くの人は、本当の生き方はもっと先にあると考えた。しかし、もっと先にあるのではなく、ここに、今、この生活の中にあるのだ」
    
最高の学問と帝王学を仕込まれたファラオの王子としての40年のエジプトでの生活。荒野の気候風土、生活習慣を身をもって学び取った40年のミディアンでの生活。それらを経てモーセは燃える柴のなかに神様の召しをききました。
「足からあなたの履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」履物を脱ぐとは、聖書では権利を放棄することです(ルツ記4章)。自己主張を止め、主権を神に渡し、神の意志に従うことです。
    
人はそこにいる、ただ存在するだけでは生きているとは言えません。ただ楽しく儲かるだけでなく、自分のしていることに意味がある、自分にしかできない目的がある、そこに立ってはじめてその人の存在が光ってくるのです。
柴はいつも燃えています。ただそれは、見る人だけに見えるのです。私の家庭、職場、自分の置かれたところで、柴は燃えていないでしょうか。    
 

2013年8月18日 「恵みと平和があるように」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 1章1〜2節     説教:
神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。
 
わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように

  「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」
 
エフェソの信徒への手紙は、パウロが牢屋から記したものです。この手紙は教会とは何かを教えますが(コロサイ書はキリストはどのような方かを記します)、パウロはキリストや教会を深く思い、それを記すことで牢屋の生活が支えられたことでしょう。 
1節、2節はこの手紙の、差出人、受取人、初めの挨拶が記さています。
 
「恵み」とは、与えられるはずのない者に与えられる好意です。喜びと感謝をもって生きるのが人の本来の生き方なのですが、罪によってそれが叶わなくなりました。そんな私たちが生きていてよかったという喜びの中で生きられるように、イエス様によって父なる神様とキリストの恵みの中に生きることが出来るようにされました。
「平和」とは、不和・争いの中にあった者が、神様と、自分と(自分を赦せない人が沢山いるのです)、隣人との間が平和になることです。あるいは病気や将来への不安が平安になることです。イエス様の十字架の赦しによってここに導かれました。
 
私たちは努力してこの「恵み」と「平和」が与えられたのではありません。イエス様によってそう定められたのです。私たちは感謝してその身分を生きていますか。
イエス様を信じることは、信じて幸いを得るだけでなく、キリストを伝える者となることです。恵みと平和をまわりの者に祈る者になることです。
 

2013年8月11日 「それぞれの使命」     
聖書:ヨハネによる福音書 21章15〜25節   説教: 
 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
 
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
 
ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
  復活された主はペトロに問われました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛していか」と。ペトロも万感の思いを込めて「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えます。
信仰とはイエス様を信頼すること、委ねる、従う事といろいろ言うことができますが、結局はイエス様を愛することにつきます。晩年ペトロは自分のこの体験から若い人に、信仰とは、キリストの愛に応えてキリストを愛すること、と言い切りました (ペトロ一1:8)
 
すると主は「わたしの子羊を飼いなさい」と牧会を命じます。強い人には分からず、失敗したからこそ失敗する人の弱さのわかる牧者としての勤めをせよと。牧者の勤めとは、信者がどうしたら神様の赦しと愛に生きられるかのために配慮することです。
牧師の業は自分の思いではなく神様の御心を実現することですから、「両手を伸ばして、他の人に帯を締めら、行きたくないところに連れて行かれる」のです。イエス様のお言葉のようにペトロその生涯を送りました。
 
ペトロが、後からついて来たイエス様の愛しておられた弟子(ヨハネ)のことを「この人はどうなのでしょうか」と問うと、イエス様は「あなたに何の関係があるか、あなたはわたしに従いなさい」と言われます。他人のことは心配するな、彼には彼の使命があると優しく言われたのではなく、彼がどんな道を歩んでもあなたには関係がない。大切なのは他人と比べることではなく、あなたが私に従うことだ、と言われたのです。
 
ヨハネはキリストを証して、それを書いたのでした。証しは殉教と同じです。ヨハネはヨハネなりの殉教をしたのです。皆それぞれの使命に生きるのです。
 
交わりの豊かさはあります。しかし、信仰と奉仕は自分と神様の事なのです。



2013年8月4日 「人生のリセット」  
聖書:ヨハネによる福音書 21章15〜19節   説教:
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
 
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

  誰にでも消し去りたい過去があります。それを思い出すと恥いって落ち込んでしまう失敗です。そんな人生がリセットされることが救いなのです。
 
ペトロにもそれがありました。キリストを否認したあの出来事です。ペトロはユダとは違います。生涯をかけてイエス様に従いたかったのに女中に足元をすくわれて裏切ってしまったのです。それを考えると悔やんでも悔やみきれず、何とイエス様にお詫びと自分の思いを述べたらよいか、あの後悶々と過ごしていたに違いありません。
復活された主はそんな彼に現れて問われました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と。ここで主は、裏切った理由を尋ねたり、悔い改めよと言ったのでもありません。主はペトロの弱さも、鶏が鳴く前の裏切りも、何もかもを知っていて「私を愛するか」と問うておられるのです。
ペトロは万感の思いで「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えます。「私はあなたを愛します。あなたが私を愛してくださっていることも私はわかっています。愛の確かさは私の内にあるのでなくあなたの中にあるのです」というのです。
 
失敗を無かったものとしたり、失敗した自分を自分で受け入れることで人生はリセットできません。自分を越えるもっと大きな方によって自分が受け入れられていることを知って、初めてできるのです。
 
更に主は「わたしの子羊を飼いなさい」と牧会を命じます。強い人には分からず、失敗したからこそ失敗してしまう人の弱さのわかる牧者としての勤めをせよと言われます。

自分が受け入れられ、更に自分にしかできない使命が与えられる。自分の失敗が生きる道、これが復活の主による人生のリセットです。