説教


2013年9月28日 「越えるべきハードル」     
聖書:出エジプト記 5章1節〜6章1節   説教: 
 その後、モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。」 ファラオは、「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と答えた。 二人は言った。「ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしないと、神はきっと疫病か剣でわたしたちを滅ぼされるでしょう。」
エジプト王は彼らに命じた。「モーセとアロン、お前たちはなぜ彼らを仕事から引き離そうとするのだ。お前たちも自分の労働に戻るがよい。」
ファラオは更に、言った。「この国にいる者の数が増えているのに、お前たちは彼らに労働をやめさせようとするのか。」 ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。 「これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。だから、自分たちの神に犠牲をささげに行かせてくれなどと叫ぶのだ。 この者たちは、仕事をきつくすれば、偽りの言葉に心を寄せることはなくなるだろう。」 民を追い使う者と下役の者は出て行き、民に向かって、「ファラオはこう言われる。『今後、お前たちにわらは一切与えない。お前たちはどこにでも行って、自分でわらを見つけて取って来い。ただし、仕事の量は少しも減らさない』」と言ったので、民はエジプト中に散ってわらの切り株まで集めた。 追い使う者たちは、「わらがあったときと同じように、その日の割り当てをその日のうちに仕上げろ」と言って、せきたてた。 ファラオに任命された追い使う者たちは、監督として置いたイスラエルの人々の下役の者らに、「どうして、今までと同じ決められた量のれんがをその日のうちに仕上げることができないのか」と言って、彼らを打ったので、 イスラエルの人々の下役の者らはファラオのもとに行って、訴えた。「どうしてあなたは僕たちにこのようにされるのですか。 僕らにはわらが与えられません。それでも、れんがを作れと言われて、僕らは打たれているのです。間違っているのはあなたの民の方です。」 彼は言った。「この怠け者めが。お前たちは怠け者なのだ。だから、主に犠牲をささげに行かせてくださいなどと言うのだ。すぐに行って働け。わらは与えない。しかし、割り当てられた量のれんがは必ず仕上げよ。」 イスラエルの人々の下役の者たちは、「れんがの一日の割り当ては減らすな」と命じられて、自分たちが苦境に立たされたことを悟った。
彼らがファラオのもとから退出して来ると、待ち受けていたモーセとアロンに会った。彼らは、二人に抗議した。「どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです。」
モーセは主のもとに帰って、訴えた。「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。 わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」
主はモーセに言われた。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」
   「わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行なわせなさい」
 

これは大変な言葉です。圧倒的なエジプトの王の前で奴隷のイスラエルが要求するのです。歴史を変える言葉です。祭りを行うとは神様を礼拝することです。人は自分で自分を解放できません。永遠なるものと結びついて、初めて解放できるのです。    
  
  
モーセのこの言葉はさまざまな反応を引き起こしました。
イスラエルを労働力としてしかみていないエジプトの王ファラオは、それを世迷言と聞きました。ファラオにとって礼拝や信仰はどうでもいいことでした。イスラエルの民は労働力にすぎないのです。草を刈ることは求めても鎌をとぐ意味を認めないのです。それでもっと労働をしめつけました。


目先のことし考えないイスラエルの民は、モーセの言葉のためにもっと苛酷な労働を強いられ、モーセに食ってかかりました。彼らにとって明日の自由より今の苦しみが問題でした。
 

イスラエルの解放にとって事態はかえって悪くなったと思われました。しかしこれは越えるべきハードルです。ことが起こるためには障害はつきものなのです。これを避けたり先延ばししていては、事態は悪くなりこそすれ新しい展開は望めません師、後でつけが倍になった帰ってきます 。 

モーセは困難に出会うたびに神様のもとに帰って訴えたのでした。ファラオの仕打ち、民の無理解、事態の悪化。しかしモーセには帰るところがありました。一日の仕事終えて家に帰るように、神様のもとに帰るのです。
私たちも、隠れた祭壇を築いてそこから押し出されます。神様が愛をもって支配していることを知っていますから。


2013年9月22日 「心の目が開かれる」      
 聖書:エフェソの信徒への手紙 1章15〜23節
                          (15-19)@
  説教:  
 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、 心の目を開いてくださるように。
そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。


神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、
すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。







  「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」
 

心の目が開かれて何が見えるようになるのでしょうか。
@ 「神の招きによってどのような希望が与えられているのか」
人は希望なしには生きられません。苦しいことがあるから生きられないのではなく、苦しみの中に希望が見出せないので生きられないのです。希望がないので自暴自棄になり、刹那的な生き方になるのです。神様が愛をもってこの世を支配し、私たちがその愛の中に生きることが世の初めから定められていたことを知っていますか。


A 「聖なる者たちが受け継ぐものがどれほど豊な栄光に輝いているか」
望みはいつも未来に関っています。体力が衰え、金利も下がり、どう死を迎えるか考える私たちに与えられている望。それがどんなに豊な栄光に輝き、世の終りまで続いているかを悟っていますか。
 

B 「私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きいものであるか」
これは現在の神様の働きかけです。神様は、私たちの救いを小手先であしらうのではなく、「神はこの力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ」られた神の力です。この力が私たちに働いているのです。私たちはそれを生活の中で体験させていただくのです。


2013年9月15日 「聖霊の証印・保証」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 1章3〜14節(11-14)B    説教: 
 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
 

わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、
秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。
それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。
 

あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。
この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。  
  1章3−14節は神様への頌栄で、3−6節は父なる神の選び、7−12節は子なるキリストの救いの業、11−14節は聖霊の業が讃えられています。


信仰者は「約束されたものの相続者」「恵みの相続者」「神の民」です。いつもこのことを意識しているわけではありません。しかし、病気や不運、死の影が忍び寄るとき、この身分に置かれている者の幸いをしみじみと覚えます。
しかもこのことは、「キリストにおいて、御心のままにすべてを行なわれる方のご計画によって、天地の造られる前から定められていた」というのですから、神様の用意してくださった救いのもったいなさが分ります。


そのことの証拠はどこにあるのでしょうか。何より「キリストにおいて真理の言葉、救いをもたらす福音」が語られ、私たちがそれを聞いたことです。
私たちはそれを聞いて信じたのですが、信じられるのは、聖霊が証印を押してくださったからです。証印とは持ち主を表す捺印です。聖霊が働いて、私たちの心の内に、私が「私のもの」ではなく、「神のもの」であることを確証してくださったのです。
聖霊は更に、私の信念や願望ではない御国の喜びの保証(手付金)を与えてくださいました。


それはすべて「神様の栄光を讃える」ためです。救いは私にとって幸いなことです。しかし、自分にとって都合がいいかどうか以上に、救われてその生涯で神様の栄光を現し、それを讃える。そこに救いの本当の意味があるのです。

 

2013年9月8日 「御子による罪の赦し」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 1章3〜14節(7-10)A    説教: 
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
 

わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、
秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。
それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。
 

あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。
この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。  
  今日の個所には前提があります。わたしたちが生きていく上で健康も、経済のこともないがしろにはできません。しかし大は国と国、小は家庭まで、戦争や争いが起こったらそれらの一切はひっくり返ってしまします。問題は争い・恨み・罪です。教会が家内安全、商売繁盛、無病息災以上に罪と悪(関係を壊すもの)を問題にし、愛と赦し(関係を修復するもの)を説くのはこのためです。
 

「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」 
「贖い」とは土地でも人でも元の持ち主に戻されることで、身代金が必要です。イエス様が十字架の血を流して私たちを本来の姿に戻してくださいました。    
これは歴史の中で行われた事実です。それを信じることで自分のものにしますが、信じて神の者にされるのではなく、神様の者とされていることを信じるのです。私たちの罪は赦され、神様の前に天下晴れて生きる者とされています。
 

贖われて罪が赦された私たちには、「知恵と理解」が与えられます。神様やイエス様を更に深く愛するための「知恵」、日々信仰者として生きるための「理解」です。
 

私たちがこの知恵と理解に生きるとき、私たちには神様の「秘められた計画」が知らされます。私たちは天地の造られる前から神の子とされるように選ばれていたのですが、この世は一体どこに向かい、どうなるのでしょうか。
「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」 私の救いだけでなく、やがてこの世が救われる。自分の救いとこの世の救いが明らかにされます。
 

私の救いとこの世の救いがはっきりしています。悪をもって悪に向かえば悪の連鎖は無くなりません。恨まれても恨み返さず、イエス様の赦しと愛に生き、それを持ち運ぶものとなれないでしょうか。

2013年9月1日 「神がほめ讃えられますように」  
聖書:エフェソの信徒への手紙 1章3〜14節(3-6)@
  説教:
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
 

わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、
秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。
それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。
 

あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。
この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
  差出人、受取人、挨拶のあと、パウロは神様をほめたたえる「頌栄」を書きます。3節〜6節は父なる神様をほめたたえる言葉です。
 

やっていないことを語ったり、したことを無視しても「ほめたたえ」ることにはなりません。人の対してもそうですが、まして神様に対しては、正しい信仰告白こそが神様をたたえることなのです。
 

三つのことで神様をたたえます。
「神はわたしたちを…天のあるゆる霊的な祝福で満たして下さいました」私たちは恐ろしい運命や呪いの中にあるのではありません。神様の祝福のなかに置かれているのです。
 

その祝福は「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと…お選びになった」ことでした。これが誇張した表現ではないことは信仰者が知っています。ここに私たちの信仰の確かさがあります。
 
それは私たちを「神の子にしようと前もってお定めになった」ことなのです。私たちをイエス様と同じように扱ってくださる。しかもそれが神様の喜びだといいます。考えられない、とんでもないことです。
 

これらの一切は主イエス・キリストにおいてなされたことで、パウロはその祝福の一つ一つの背景にイエス様の誕生、公生涯、十字架、復活、昇天を思い浮かべていたに違いありません。
 
このことを考えたら、神様をほめたたえずにはおられないのです。