説教


2013年10月27日 「神の御手を見る」      
聖書:出エジプト記 11章4〜10節     説教: 
 モーセは言った。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。 そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。 大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない。』
しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう。
あなたの家臣はすべてわたしのもとに下って来て、『あなたもあなたに従っている民も皆、出て行ってください』とひれ伏し頼むでしょう。その後で、わたしは出て行きます。」そして、モーセは憤然としてファラオのもとから退出した。


主はモーセに言われた。「ファラオは、あなたたちの言うことを聞かない。そのため、わたしはエジプトの国に大きな奇跡を行うようになる。」
モーセとアロンはファラオの前でこれらの奇跡をすべて行ったが、主がファラオの心をかたくなにされたため、ファラオはイスラエルの人々を国から去らせなかった。

  成人男子だけで60万人、婦人子供を入れると100万人を下らないイスラエルの民がエジプトを脱出して先祖の約束の地に向かいます。エジプトを脱出する時も、脱出した後の荒野の旅も困難の連続でした。


モーセは民をエジプトから導きだすために、何度もファラオと交渉しました。全部で十種類の「しるしと不思議」が行なわれました。理屈で説明できることもありますし、説明できないこともあります。大切なことは、聖書を自分の知識で納得させることではなく、そのような記述で何を語っているかを聞くことです。信仰は人生訓や道徳律ではなく、生ける神様の御手を見ることです。時が神様の舞台ですが、ことと場合によっては、まさにこの場で働かれます。私たち信仰者は、そこに神様の御業を見ます。
 

ファラオは、災いが過ぎ去るとその心を変え、前言を翻してイスラエル人を去らせません。聖書は不思議な言葉を記します。「主がファラオの心をかたくなにされたため、ファラオはイスラエルの人々を国から去らせなかった」(7:14、10:20、27、11:10)
脱出が可能かどうか、それはファラオの思いに掛かっています。苦役に苦しむイスラエルの民は、モーセとファラオの交渉をはらはらしながら見守り、何度ファラオの言葉に希望を持ち、心変わりに失望したことでしょう。しかし、壁がどんなに高くても、苦しみがどんなに長くても、ファラオの心さえ神様の御手の中にあるのです。神様の許しなしには何事も起こらないのです。ここに私たち信仰者の希望と力があります。


信仰者は苦しみに神様の御手を見て、神の試練ととらえられる人です。

2013年10月20日 「死んでいた者を生かす神」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 2章1〜10節 @   説教: 
さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。


しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。


なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

  救い主キリストと教会との関係が記された後、いよいよ救いについて記します。救いを語るためには、どこから救われるのか、つまり自分の現実を知る必要があります。


「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」
「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順の者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」
「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」


かつての私たちは神を神とせず、自分がしたいように行ってそれがなぜ悪い、それが自由だ、と思って生きてきました。しかし、それは罪を治めずに罪に引きずられた生き方だったのです。それは、肉体は生きていても、本来の人の生きかたではなく、「死んで」いたのであり、神の怒りの対象でした。
罪について私たちは初めからわかっていたのではありません。キリストの赦しと愛に触れてはじめて分ることです。それが分って洗礼を受けるのではなく、受けた者が自分をそう認識できているかどうかです。


聖書は罪を知らせることではなく、救いを語ることが目的です。
「憐れみ豊かな神は…罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、…共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」


救いについてもはっきりする必要があります。罪に死んでいた者が神様の憐みによってキリストと一つになって生きる者、死から復活し、天の王座に着く者とされました。救われることはキリストと共に生き、天に繋がる者とされていることです。このような身分にされているのです。

2013年10月13日 「神の正しさと人間の正しさ」     
聖書:マタイによる福音書 1章18〜25節   説教:山田京二 前松原教会牧師
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」


ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。


 
  ヨセフは、婚約者マリアが自分の身に覚えがないのに妊娠したことを知ったときに、離縁しようとした。
聖書は、「ヨセフは正しいひととであったので、マリヤのことを表沙汰にすることを望まず、ひそかに離縁しようとした」と記している。ヨセフは、正しい人だったから離縁しようとしたのではなく、「表ざたになることを望まず、ひそかに」離縁しようとしたところに、「正しさ」という言葉を使っている。


吉野弘の「祝婚歌」という詩の中で、「正しいことをいうときは,少しひかえめにする方がいい」という言葉がありますが、そこでは、正しさとは優しさであると言っている。
このときのヨセフの正しさは、まさに優しさとして示された。しかし、それでもヨセフ自身の潔癖症を守るために、自分の立場を守るために、ひそかにではあったが、離縁しようとした。


神はそのヨセフに、「恐れず、妻マリアを受け入れよ。その胎内の子は聖霊によって宿ったからだ」と呼び掛けた。ヨセフはこの神の言葉を信じ、受け入れて、離縁しなかった。ヨセフは自分の潔癖性、自分の立場を守ることを捨てて、神の正しさの前に立ったのである。


イエス・キリストによって示された神の正しさとは、私たちの罪を糾弾し、裁くことにおいて示されたのではなく、私たちの罪を赦すことによって示された。神の正しさは、罪の赦しにおいて示された愛であった。神の正しさは,単なる優しさとしてではなく、神の愛において示されたのである。

2013年10月6日 「教会はキリストの体」  
聖書:エフェソの信徒への手紙 1章15〜23節A   説教:
こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。


どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、
心の目を開いてくださるように。
そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。


神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。


教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。


  「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」


一体神様の力はどこに働くのでしょう。自然の中や歴史にもあります。しかし、決定的にはキリストの甦りです。死と罪に勝ち、神の右に座して、神様を信じる人々を執り成して下さっているところにあります。キリストによって罪と死から解放されて救いが確立し、その救いに生き続けるために執り成して下さいます。
当時、人々に影響を与える天的な力が考えられていました。支配、権威、勢力、主権などがそれです。これらは現在の私たちにも無縁ではありません。人の努力を越える天的な力が私たちを支配していることを、私たちはおぼろげながら不気味に感じています。
しかしキリストは甦り、天に昇り、過去・現在・未来、自然界・霊界のあらゆるものの上に君臨し、私たちを執り成して下さっているのです。


「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」


神様は、力に満ちたキリストを教会の頭としてお与えくださいました。私たちはキリストの十字架が私の救いのためであることは知っています。更に言えば、キリストの十字架・甦り・昇天は、教会を建てるためだったのです。救いは教会を抜きには考えられませんし、私たちが神様の救いに生き続けられるためにこの教会を建ててくださいました。
教会は、私たちの救いのために必要なものが、すべて満ちているところです。