説教


2013年11月24日 「過越の子羊」     
聖書:出エジプト記 12章21〜36節   説教: 
 モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。
「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。 そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。 主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。
あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。 また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。 また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」
民はひれ伏して礼拝した。 それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。
  

真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。
「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい。」 エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。 民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ。 イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。 主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。
   イスラエルの民はモーセの導きによってエジプトを脱出します。その際、傷のない一歳の雄の小羊を屠って、その血を入口の柱と鴨居に塗りました。過越の祭りの起源です。
    

ファラオは、自分の権力を保持するためにはイスラエルをエジプトの地に止め続けたのです。ファラオにとってイスラエルの民は労働力であり財産でした。
奴隷に自由はありません肉体的な自由だけでなく精神的にも自由はありません。奴隷は自分を持てませんし自分を主張できず、主人の言われた通りしなければならないのです。(参 ローマ 7章15〜24節)イスラエルの民にとっても私たちにとっても、出エジプトとは単なる苦しみや苦役からの解放ではなく、積極的・消極的な罪からの解放です。
  

エジプトから脱出するためには、どうしても過ぎ越しの子羊の犠牲が必要でした。人は何かの犠牲なしには生きられません。人が生きるためには、誰かが、どこかで破れをつくろい、汚れを洗ってくれているのです。
私たちは一人で生きてきたのではありませんし、これからも一人で生きていくのではありません。どれだけの人に支えられているかを絶えず知る必要があります。
    

過越の小羊であるイエス様の犠牲はすでに捧げられました。
私の出エジプトがなっていることに気付いていますか。
神様の救いの業を知ることは自分の尊さに目が開かれることです。自分の尊さを知った者が人の尊さにも目が開かれ、一緒に生きることへと導かれるのです。


2013年11月17日 「人は何のために生きるか」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 2章1〜10節 A   説教:
 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
 
しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。


こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

  「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自分の力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」


その通りです。パウロは繰り返しこれを語ります。それは人が神様の恵みを分かっていないからです。何故神様の恵みが分からないのでしょうか。
人はたたけば埃は出るとは思いますが、過ちと罪とによって死に、生まれながら神の怒りを受けるべき者と考えていないのです。また、神様の恵みはありがたいけれど、全てが恵みによるとは思わず、自分にも少しはよいところがあると思っているからです。このことの認識が甘いのです。
 
それだけでありません。その私が、十字架の恵みによって神の愛の中にいれられて救われていること、それを心底から知る必要があります。自分の罪を知るだけでは不十分で、赦されていることも知るのです。
実は、神様の赦しを知らされたので、自分の罪の姿もはっきりわかるのです。
 
「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」
 
善い業をして救われるのではありません。しかし救われたら良い業と無縁になったのではありません。救われるのは、よい業、神様のお心を行ってその恵みに応えるためです。救われるとは、喜びと感謝をもって神様のお心に生きることなのです。
神様の祝福と平安を持ち運んでいますか。


2013年11月10日 「向こう岸に渡ろう」     
聖書:マルコによる福音書 4章35節〜5章20節    説教:吉祥寺教会 吉岡康子牧師 
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。


一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。
  「私たちがおぼれてもかまわないのですか!」と弟子たちは悲鳴をあげます。平穏無事な時には、私たちは神を忘れかけています。しかし危機に瀕したときに私たちは神を求めます。


それでは「苦しい時の神頼みではないか」と言われるかもしれません。それで良いのです。私たちは実は苦しい時に、自分の知識や経験や頑張りで何とかしようとするのではないでしょうか。苦しみの中で、私たちは私たちのすぐ近くに居られる神さまと出会うことができるのです。


こうして嵐の海を越えて対岸で待っていたのは嵐に翻弄される一人の人でした。
主イエスは彼をあきらめません。神の救いの光の届かぬ地も人もいない、神の光が届かない出来事もないのです。どんな苦しみのなかにも神の手は届いています。主の救いはすべての人に、どんな人にも与えられている恵みです。
ですから、この人は神の救いに預かれないと人が人を決めてしまうことは出来ませんし、自分で自分を決めつけてもいけません。そのひとりを、あきらめてはならないのです。


その人ためにも主イエスは嵐の海をわたり、十字架にかかり、その人のために、復活されたのです。

2013年11月3日 「天にある住みか」  
聖書:コリントの信徒への手紙 2 5章1〜5節   説教:
わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。


わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。
それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。
この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。


わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。




  わたしたちの地上の生活を天幕にたとえています。
「地上の住みかである天幕」「人の手で造られたもの」「幕屋に住むわたしたちは重荷を負って苦しみうめいています」 私たちの地上の生活は、肉体も精神も弱くほころびやすく、借りの住まいです。
苦しみ呻きますが,それは罪がまとわりついているからです。 


地上の住まいの先に「神によって備えられた建物」「天にある永遠の住みか」が用意されています。地上の天幕に対して、確かな永遠の住みかです。


以上の二つならよく分かります。しかしその後がわかりません。「わたしたちは天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」

住みかを上に着たいというのはおかしな表現ですが、パウロの気持ちは良く表されています。地上で苦しんでそのまま天の住まいに移されるのではなく、又そのままキリストの前にたてるはずもなく、キリストの義の衣を着せて欲しいというのです。(参 ヨハネの黙示録 7章9〜14節) そうでなければ罪に満ちた私たちは安心して死を迎える事は出来ないのです。
キリストはそれを着せてくださって天に移されるのです。
私たちが勝手にそう思いこみ期待しているのではなく、聖霊がそれを確信させてくださっています。


今日の個所を神様の導きの中で読みたいと思います。そうでなければ、地上の確かな生き方には結びつかず、ただ聖書を読み、説明を聞いただけでしかないのです。


私たち洗礼を受けてこの身にそれを着せていただきました。キリストの義の衣は全ての者に用意されていますので、わたしの家族もキリストに委ねます。