説教


2014年1月26日 「助けの石」     
聖書:サムエル記 上 7章5〜12節    説教: 北本教会 石川榮一牧師
サムエルは命じた。「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう。」
人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し、その所で、「わたしたちは主に罪を犯しました」と言った。サムエルはミツパでイスラエルの人々に裁きを行った。
 
イスラエルの人々がミツパに集まっていると聞いて、ペリシテの領主たちはイスラエルに攻め上って来た。イスラエルの人々はそのことを聞き、ペリシテ軍を恐れて、サムエルに乞うた。「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください。」
 
サムエルはまだ乳離れしない小羊一匹を取り、焼き尽くす献げ物として主にささげ、イスラエルのため主に助けを求めて叫んだ。主は彼に答えられた。
サムエルが焼き尽くす献げ物をささげている間に、ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んで来たが、主がこの日、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れられたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。 イスラエルの兵はミツパを出てペリシテ人を追い、彼らを討ってベト・カルの下まで行った。
サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付けた。
  ○今朝の聖書の個所から、私たちが示されることは「礼拝の意味」ということであります。
○礼拝の意味は、まず「集まる」ということです。ペリシテ人の攻撃に備えて、サムエルは「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう」、すなわちミツパで礼拝をささげようと呼びかけています(5節)。まず、礼拝に「集まる」ということが、今日のわたしたちにとりましても、信仰生活が支えられるうえでも何より大切なことです。
○次にサムエルは「乳離れしない子羊」(9節)を焼き尽くすささげ物として捧げ、礼拝します。神さまに、これ以上ない上等なささげ物をささげる こと、言いかえれば自分自身をささげる、ことであります。
○そしてサムエルは「主に助けを求めて叫んだ」(8節、9節)とあります。これは礼拝の本質です。サムエルは主に「助け」(エゼル=確かな助け)を求めて祈り、その結果、ペリシテ軍は民の礼拝中に攻撃を仕掛けますが、主が激しい雷鳴をとどろかせたために、彼らは打ち負かされてしまいました(10節)。人間の「叫び」に答える「神の助け」はそれほど確かなものであります。
○したがってサムエルは礼拝の結びとして、「確かな主の恵みに対する感謝」の表明としてそこにあった石をひとつ取り「今まで、主は我々を 助けて下さった」といって、その石を「エベン・エゼル」(助けの石)と名 付けました(12節)。
○私たちの人生においても「今まで」さまざまな「助けの石」があったこと、そしてこれからも「神は我々を助けてくださる」ことを、毎週の礼拝を通してわたしたちは思い起こし、感謝し、そして確信していきます。
○我が家においても、たくさんの「助けの石」が与えられたことを、主に深く感謝したいと思っています。
 

2014年1月19日 「敵意の壁を取り除く」      
聖書:エフェソの信徒への手紙 2章14〜22節( 14−18)   説教: 
 実に、キリストはわたしたちの平和であります。
二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。
こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。


キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。
キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、
使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。
キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
   生きる上での問題は色々あります。貧しさや病気も問題ですがそれは消極的です。しかし敵意は積極的です。相手を傷つけ返す刀で自分を傷つけます。
ユダヤ人は自分たちは神に選ばれた民、律法を持っていると誇り、ギリシャ人は哲学を誇り、ローマ人は法とその裏付けの力を誇りました。誇ることで他の民を侮辱し、他の民は恨みと敵意を抱きます。あの人の顔を見るのもいやという関係の二人が、どうしたら敵意の壁を突き崩し一つとなれるのか、エフェソ教会の深刻な問題であり、私たちの課題です。


ユダヤ人は自分たちには律法が与えられ、異邦人を「律法無き民」と軽蔑しますが、一方では、律法はそれを守れないユダヤ人を神様と隔てていたのです。形や行いによって神様に救われる道は、イエス様によって廃棄される必要があったのです。
赦され難い私がキリストの十字架の血によって神様と和解させられました。私は新しい人に創造されたのです。


「二つのものを一つにする」とは、人と人とが向き合って仲直りをして一つとなるということではなく、二人が神の方を向いて一つになる、一つとなるにはそこから以外ないのです。
「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、…双方を御自分において1人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神に和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされ」ることによって実現したのです。
私が新しい人に創造されますが、その私がキリストの体に組み込まれ、相手も教会に組み込まれてはじめて二人は一つとされます。一つの体となります。
人の優しさや愛を大きくして平和がくるのではなく、キリストの赦しの故に神様の前に立つこと、神様との平和に生きてそれが実現します。礼拝でそれを確認するのです。


2014年1月12日 「神をほめたたえる」     
聖書:ルカによる福音書 17章11〜19節    説教: 
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。


その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。


そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
 
   イエス様はエルサレムに上る途中、10人の重い皮膚病を患っている人と出会われました。彼らを見たイエス様は、病気を判定する「祭司のところに行って体を見せなさい」と言われ、彼らは祭司のところに行く途中癒(いや)されました。主の言葉に従って一歩を踏み出す時、しるしは後からついて来ます。信仰は、しるしがあるのでその後についていくものではありません。
癒されたサマリヤ人は大声で神をほめたたえながらイエス様のところへ帰ってきました。イエス様は彼に「清められたのは10人ではなかったのか。神をほめたたえるために帰ってきたのはこの他国人のほかにいないのか」と残念がりました。


9人がイエス様に感謝しなかったとは思えません。自分の体が癒された事実を感謝したに違いありませんし、感謝しないはずがないのです。
しかし、いくら癒されたことを感謝しても、感謝は感謝だけなのです。時をへて悲しみが薄らぐように、喜びや感謝も時の中でそれに慣れ、色あせていくのです。それが人です。


イエス様に神様の業を見て、神様をほめたたえる。私の人生に神様が斬りこんで下さっているのを知って、神様をほめたたえるのです。自分は泣き、愚痴を言い、争うために生まれたのではなく、神様の祝福の内にある。これに目が開かれ、ほめたたえるのです。
その後彼の人生にも、喜びと辛さが色なすでしょう。その一つひとつを神様の御手の中でとらえてゆけるのです。これがその人を救う信仰です。

2014年1月5日 「神を知る前と知ってから」  
聖書:エフェソの信徒への手紙 2章11〜13節   説教:
だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。


また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。


しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
  「だから心に留めておきなさい。」
パウロは念を押すように前のことを確認しながら筆を進めます。私たちは今あることが当然のようになり、神様の恵みが分からなくなります。それは私たちがどこから救われたかを忘れるからです。


では何を心に留めるのでしょうか。「以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。」
ここではガラテヤ書で問題になっているような形式的な割礼の問題ではなく、割礼の本来の意味を語っています。割礼は肉体の徴だけでなく、神様との関係をあらわしています。創世記17章7節にあるように、割礼を受けることは、神様が自分の神様になってくださっていり自分もそれに応えることの徴なのです。
信仰は神様を信じることですが、もしそれだけならその信仰は気休めに過ぎません。私が神様を信じるとは、私の決意もさることながら、神様も私の神様となってくださっている、その関係に入っていることを信じるのであって、そのしるしが割礼(洗礼)なのです。


「そのころはキリストと関わりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」
「しかし、あなたがたは、以前は遠くに離れていたが、いまや、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」


近い、遠いは神様のとの関係です。かつては神様との関係が遠いことさえ知りませんでした。キリストを知ってからは、神様の近くに生きて神様を父よと呼び、委ね、その愛の内にいるのです。神様を知る前と知って(神様に知られていることを知る)からは、生き方が一変します。



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