説教


2014年2月23日 「主の救いを見よ」     
聖書:出エジプト記 14章1〜25節     説教: 
 主はモーセに仰せになった。 「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。
するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。 わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」彼らは言われたとおりにした。

民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」 ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、 えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。
主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、 エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。 ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。
イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。
我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」
モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」

イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。
モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。
イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。
エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。 戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
   エジプトを脱出して紅海のほとりで休むイスラエルの背後から、再度イスラエルを奴隷にしようとエジプトの兵隊が襲いかかりました。紅海を目の前にして進むに進めず、退くことも出来ません。イスラエルの民はうろたえ、混乱し、焦り、「我々を連れだしたのは、エジプトに墓がない(ピラミッドは巨大な墓)からですか」とモーセに八つ当りします。


「モーセは民に答えた『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行なわれる主の救いを見なさい。…主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。』」


 信仰は神様を知ることではありません。信仰を批判する人は信仰者以上に神様についての知識をもっていますし、比較宗教学者は牧師以上に神について洞察できます。信仰は神様について知ること以上に、祈り、信頼し、事が起こった時どれだけ神様の御手を見続けられるかなのです。


「不信仰は困難を通して神を見、信仰は神を通して困難を見る」と言われます。こんなに苦しみがあるのにそれでも神は愛か、と不信仰は言います。信仰は、神がこの苦しみを通して私に何を教え、何をしてくださるかと期待します。
信仰は人生訓や思想ではありません。生ける愛の神様を私の人生と事柄のなかにお迎えすることなのです。


2014年2月16日 「恵みを伝える務め」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 3章1〜13節(7−9)    説教:  
 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。
あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。
あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。
この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。
すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。


神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。 この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。


こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。
だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。
  パウロは福音に仕える自分を「聖なる者たちすべての中で、最もつまらない者」と言います。それは謙譲から出たものではありません。パウロの能力は皆の知るところです。教会を迫害したからそういうのでもありません。過ちや失敗はだれにでもあることだからです。福音の計り知れない恵みを知って自分を見ると、そう告白せざるを得ない実感なのです。

パウロ(それは全ての信仰者)にとっては、どうしたら神様から義(善し)とされるかが問題でした。間違った生活の上に本当の生活はありません。罪を犯さないために律法に従って生きる。パウロは必死でそれを行って落ち度のない者と自負し、そうしない人を見下し、更に律法の行いによる義の生き方に弾みをつけていました。


しかしイエス様に出会ってから生き方が一変しました。イエス様の十字架によって、神様からの義は、獲得するものではなく、与えられるものと知らされたからです。
キリストを信じることは裁きをやめることです。イエス様によって私は赦され愛されています。それで自分を裁きません。隣人も裁きません。隣人と比較もしません。神の愛と赦しの中で自分や周りを見るだけです。


パウロの開眼はそれだけに止まりません。それに値しない自分が神の赦しと愛に生かされていると知ることは、神様と無縁に生きていたと思われていた異邦人もその恵みの内にあり、それは「世の初め」から神様のお心の内にあったと知らされたのです。
パウロはその恵みを伝えることでその恵みに生きたのです。

2014年2月9日 「神の秘められた計画」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 3章1〜13節(1−6)   説教: 
こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。
あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。
あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。
この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。
すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。


神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。 この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。
だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。
  パウロに啓示された「神の秘められた計画」とは、「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」


私たちは視点を変える必要があります。自分にとって神はどのような方かを考えますが、神様にとって自分はどのようなものかをとらえることが大切です、この視点がなければ信仰はわかりません。


キリストを知るまでのパウロの最大の関心事は、神に近い者となることでした。そのために罪を犯さず、律法を守ることで神様から義とされようとしたのでした。律法を知らず、又それを守らない者を軽蔑し、もう一方では自分も律法を守りきれないジレンマに悩みつつ。
そこで知らされたのは、キリストの十字架による罪の救いの道でした。義は私が獲得するものではなく与えられるものと知らされ、神に近い者とされていることを知ったのです。それで生き方がすっかり変わりました。罪を犯すまいと肩肘はった生き方から、神様の愛に一切を委ねる生き方になったのです。
それだけではありません。神様の義(赦しと愛)は、自分達ユダヤ人にだけ与えられるものるのではなく、神様の様々な約束と無縁に生きていた異邦人にも与えられていたことにも目が開かれたのです。神様の救いの広さと大きさ、その広大無辺の愛に目が開かれたのです。


パウロはそれを伝える者になりました。伝えれば伝えるほどユダヤ人を怒らせますが、それは神様の救いの奥義に与る歩みでした。

2014年2月2日 「我ら神の家族」  
聖書:エフェソの信徒への手紙 2章14〜22節A   説教:
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。


従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。
キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
  私の優しさや愛を大きくして平和がくるなら楽なものです。一度こじれた関係の回復はそんな甘いものではありません。その人の顔を見るのも嫌、そばにいるだけで虫づが走るという相手とどうしたら平和に過ごせるのでしょうか。これが人の深い問題なのです。


赦され難い私がキリストの十字架の血によって神様から丸ごと受け入れられ、神様の愛のなかでいきるものとされました。神様の愛と赦しを知って、恨まれたら恨み返すという生き方の醜さを知らされました。私は新しい人に創造されたのです。
そこから隣人との平和に導かれます。平和はそして愛も、お互いが向き合って出来るのではなく、双方とも神様の方に向いて出来るのです。教会で一つになるのです。私たちは「異国人でも寄留者でもなく神の家族」とされたのです。


私たちがキリストの体(教会)に組み込まれ、「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿になります」話は、家族から家族の属するキリストの体なる教会に移ります。
石造りの建物は、削られ、磨かれ、一つひとつ組み込まれて造り上げられます。整えられずに組み込まれることはありません。その際、自分で鍛えたり、変えたりできるものではなく、キリストと共に生きることで整えられます。


その建物は成長します。教会が成長するとは、教会がより真実に、更に純粋に神様をほめたたえる礼拝を捧げるものとなることです。未信者が礼拝に出席して思わずエリをただされ、心からの感謝に導かれる礼拝が捧げられることです。
信仰と教会の成長は分けられません。教会の成長に組み込まれることで信仰は成長するからで