説教


2014年3月30日 「日々の分を日ごとに集める」     
聖書:出エジプト記 16章1〜26節    説教 
 イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。 荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。 イスラエルの人々は彼らに言った。
「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
主はモーセに言われた。
「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。 ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」
モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。
「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」
モーセは更に言った。
「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」
モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、 アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。主はモーセに仰せになった。
「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」
夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。 この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。 イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。
「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。 主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」
イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。 しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。 モーセは彼らに、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と言ったが、 彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。 そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。六日目になると、彼らは二倍の量、一人当たり二オメルのパンを集めた。共同体の代表者は皆でモーセのもとに来て、そのことを報告した。 モーセは彼らに言った。「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」
彼らはモーセの命じたとおり、朝まで残しておいたが、臭くならず、虫も付かなかった。
モーセは言った。「今日はそれを食べなさい。今日は主の安息日である。今日は何も野に見つからないであろう。あなたたちは六日間集めた。七日目は安息日だから野には何もないであろう。」
  シンの荒れ野に来た時、エジプトから携え出た食料が底をついたのでしょう、イスラエルの民はモーセに向かって不平を述べ立てました。
 「エジプトの国では…肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べられたのに…我々をここに連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」。


神様はそれに応えてマナとうずらを与えて下さいました。その際こう言われます。「わたしは天からパンを降らせる。民は毎日必要な分だけ(日々の分を日毎に)集める。わたしは彼らがわたしの指示通りにするかどうかを試す」と。この言葉は主の祈りと同じです。                                   

 マナは朝集めないと陽が出ると溶けてしまいますし、翌日に持ち越しても虫がついたり、臭ったりします。「日々の分を日毎に集める」とは、そのようなマナの性質から出た言葉でもありますが、それ以上に、私を本当に支えて下さるのはだれなのかを日々確認させる言葉でもあるのです。


私たちは、将来への確かさを自分のうちに確保しておきたいと思います。毎日集めるのではなく、長年分を確保しておきたいのです。しかし、物を沢山貯めても、もっと貯めこみたくなります。実はこれで安心と思ったとたん、人は破たんに向かいます。世の中は変わり、自分自身も変わるのですから。
私の命の確かさは物の多寡ではなく、目先の安心でもなく、命を与えて下さった方に結びつき、日々に支えられ、努力することなのです(参ルカ12:13-34)。


 

2014年3月23日 「神に栄光があるように」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 3章20〜21節   説教  
 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、
教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
  「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、またキリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」


祈りの後に、父と子と聖霊なる神への讃美が記されています。祈りの後には讃美があるのです。


神様は何でもおできになる方です。現実離れしているように思いますが、神様への正しい信仰は、神様は何でもお出来になる方と告白することです。何でもお出来になると言っても愚にもつかないことではありません。人がどう頑張っても出来ない、例えば罪の赦し、死の克服、不条理の問題などの解決です。
罪の赦しで言えば、救いは神様との関係の回復で、罪の赦しです。私たちは救いが罪の赦しとは思いませんし、罪を罪とも感じませんでした。神様は私たちの思いをはるかに超えた救いをお与えくださいました。
この救いは外から与えられるものではなく、聖霊によって私たちの内に証しされました。なによりこの救いはキリスト・イエスによってなされたものでした。


教会は地上の信仰者の組織体である以上に、私たちの思いを超えた性質と任務が与えられているところです。教会の役割はこの救いをお与えくださった神様をほめたたえることです。
  

変転やまないこの世にあって、あらゆる変動にも左右されないで神様が讃えられること、自分の生活がどんなに変わっても神様を讃えられること、それは簡単なことではありません。
アーメンと言うほかないのです。
 

2014年3月16日 「愛に根ざし、愛に立つ」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 3章14〜19節(18-19)    説教 
こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。
御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。
どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。


また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように
 
  パウロは祈ります。「どうかあなた方の内なる人を強め」 それは具体的には、「心のうちにキリストを住まわせ」「愛に根ざし愛にしっかりと立つ者とされる」ことです。
「心のうちにキリストを住まわせる」とは、私がキリストによって生きることではなく、キリストが私のうちに生きることです。それが信仰に生きるということです。私が信仰に生きるということは、隣人と愛の関係に生きることです。これは分けられない一つのことなのです。


「愛に根ざし」とは、植物を例にとった愛の根を張って生きること。「愛に立つ」とは、建物を例にとった愛が建物の土台となって生きることです。この愛(アガペー)はキリストの愛です。キリストの愛に生きることです。


この愛は、それに生きてみてはじめて分かります。
「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と私たちは祈ります。私たちは神様から赦されたので人を赦すのですが、人を赦してみて初めて赦しの難しさを知ります。そこで神が私たちを赦してくださった赦しの大きさを知り、そこから人を赦す者へと押し出されます。それと同じです。


キリストの愛に根ざし愛に立つことで、全ての人・敵をも救う愛の広さ。人が救われるまで待ちつづける愛の長さ。最も低いところまで下り、人を天にまでも導き上げる愛の高さと深さを味わうのです。そこへ次第に導かれます。

2014年3月9日 「心の内にキリストを住まわせる」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 3章14〜19節(14-17)    説教 
こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。
御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。
どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。


また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように
  エフェソの信徒への手紙には二つの有名な祈りが記されています。第1は神さまをたたえる頌栄が語られた後で1:17−22の祈りで、そのあとキリストによって与えられた救いが記されています。第2は3:14−19の祈りが捧げられ頌栄がしるされています。そのあと4章からの救いを知った者の生き方が記されています。


 「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださるように」
「内なる人」とは、私たちの内面的、精神的なことを言うのはなく、神様に結びついた、信仰に生きる人のことです。「外なる人」とは生来の人のことです。
生来の人は、自分で不安を払うことも、悪い習慣を止ることも出来ません。ですから、神様のお力によって、その信仰に生きる「内なる人」が強められるようにと祈ります。
「内なる人が強められる」とは、「心の内にキリストを住まわせる」ことです。キリストの言葉や生き方を参考に生きるのではなく、キリストが私の心のうちに住み着いて下さって、私の中でキリストが生きるということです。
「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と言うことです。これが信仰生活の秘訣です。


このことをはっきりさせることから、4章からの倫理が始まります。


2014年3月2日 「神の知恵を伝える恵み」  
聖書:エフェソの信徒への手紙 3章1〜13節(10-13)   説教:
こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。
あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。 初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。
この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。 すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。
神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、 すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。


こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、 これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。 わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。 だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。
  値しない者に与られる神様の恵み、それは異邦人にまで及び、天地創造の前から神様のお心にあったことで、この福音は教会を通して天使達にまで伝えられます。しかし、この広大無辺な福音も原点は神様との関係です。


「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」
ある人は、神様に近づくのは祈りだと言います。私たちが「アバ、父よ」と祈れるのは神様が近いからです。しかしその祈りは礼拝に根拠があります。礼拝で神様の出会えるのです。誰にも良心がありますから、失敗したら神様の前に出られないと思います。しかし、私たちはキリストに結ばれていますから、自分の小さな義に頼らず、罪や失敗のとりこにもならず、素直に神様に近づき、その幸いに生きるのです。


「だからあなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです」
信仰を与えられた喜びを私たちは知っています。平安、勇気、信頼が与えられ、「あなたの律法を楽しみとしていなければ、この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう」(詩119:92)の通りです。
信仰は私にとって幸いなだけではありません。もう一つの幸いがあります。福音のための苦しみです。福音をもたらしてくださった主と主の教会のために苦しむことが出来れば、これに勝る幸いはありません。

この幸いにも目が開かれるようにとパウロは招いているのです。