説教


2014年4月27日 「荒れ野の旅」      
聖書:出エジプト記 17章1〜15節     説教:  
主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。 民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。
「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」
しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、 主はモーセに言われた。
「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。 彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。


アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、モーセはヨシュアに言った。
「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」
ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。 モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。 モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。 主はモーセに言われた。
「このことを文書に書き記して記念とし、また、ヨシュアに読み聞かせよ。『わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る』と。」
モーセは祭壇を築いて、それを「主はわが旗」と名付けて、 言った。
「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる。」
  奴隷のエジプトから約束の国へのイスラエルの旅路は私たちの人生の縮図です。旅には様々のことが起こります。ここレフィディムでは、水の問題とアマレク人の出現がありました。


そこまで行けば水があると思っていたイスラエルを待っていたのは、枯れたオアシスでした。「なぜ我々をエジプトから導き上ったのか。私たちも子どもたちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」と神様につぶやき、モーセにくって掛かりました。いくら渇きのためとはいえ底意地の悪い、しかもそれはモーセが身の危険を感じるほどのものでした。
イスラエルの民は神様の支配を見る以上に、目先の問題に目が奪われているのです。この事は聖書の至る所に「マサ(試み)とメリバ(争い)のこと」として記録されています。    
神様を試みるとは、神様の支配が私たちをおおっている事を信じないで神様をためすこと。つぶやきとは、周りの状況を見て神様の恵みを見ないことです。不平とつぶやきは、試みの別名です。
神様はことあるたびにイスラエルの民を養って下さいます。このときはモーセが持つ杖で岩を打つと、新しい水脈に触れたのでしょうか、岩から水がほとばしり出てきました。


この問題が解決されると待っていたようにアマレク人が襲ってきました。ヨシュアと選ばれた勇士が戦いますが、初めての戦いでもあり一進一退を繰り返しました。モーセは山の上からその戦いの様子を見ていますが、あることに気付きました。モーセが手を挙げて祈っているとイスラエルは優勢になり、祈りをやめるとアマレク人が優勢になるのです。疲れて手をおろしてしまうモーセの手をアロンとフルが支え、アマレクとの戦いに勝利しました。戦うのはイスラエルの民ですが、その戦いのために祈りがあり、祈られている。


何が起こるか分からない天国への旅で、神様の存在と力強い御手が見えていますか。



2014年4月20日 「いつもあなたがたと共にいる」     
聖書:マタイによる福音書 28章16〜20節    説教:  
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 いたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 
  イエス様が十字架でなくなった後、イエス様も行けと言われましたが、弟子たちは自分達の身の振り方を考えるために、故郷のガリラヤに帰ったのでしょう。そんな弟子たちに主は「…あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と宣教を命じ「…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」約束をお与えくださいました。


その際弟子たちはイエス様に会い、ひれ伏しているのですが、疑う者もいました。疑うとは「心が分かれる」という言葉です。知識の問題ではなく、信頼の問題です。
嵐に漕ぎ悩む弟子たちの舟に、イエス様が近づいて来ました。それを知ったペトロは「水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言い、イエス様に向かって歩き始めます。しかし、波と風を見て怖くなり溺れかかります。イエス様は直ぐに手を差し伸べて「信仰の薄い者や、なぜ疑ったのか」と言われました。


知識では水の上を歩くことなど考えられません。しかし信仰者は、イエス様を見つめながら嵐の水の上を歩くようなことをしています。その際、イエス様から目を離す(心が分かれる)と、たちまち不和と不信のこの世に埋没してしまうのです。


新しい出発に不安はつきものです。そんな私たちの不安を覆ってしまうように甦られたイエス様が「わたしがいるよ。世の終わりまでいつもあなたと共にいるよ」と、言ってくださっているのです。
その際自分がイエス様と共にいるのではありません、イエス様が共にいると言って下さっているのです。しかも、イエス様のお言葉に従って一歩を踏み出す時、共にいてくださることがはっきりします。思案し座して待つとき、これは体験できません。

2014年4月13日 「十字架の王」     
聖書:マタイによる福音書 27章45〜56節   説教: 
 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。


百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。


またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。
その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
  イエス様が十字架につけられたのは朝9時ことで、午後3時頃息を引き取られました。ここには、イエス様を軽蔑し悪意を持つ人、一連の出来事を見て信仰を告白する者、十字架の証人としての婦人たちが記されています。


愛を説き、赦しを教え、労わりに満ちたイエス様が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(我が神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれたのは、神と人から捨てられた叫びであり、私たちの罪のためでした。


人は罪を犯します。故意からではなく、弱さやうっかりの場合もありますし、存在そのものからにじみ出てくる場合もあります。罪の社会に生きていますので、自分だけが手を汚さないでは生きることは出来ないのです。イエス様の叫びは、そんな私たちの罪のために神様の怒りを引き受けられた叫びなのです。


イエス様の誕生のとき、東方の占星術の学者が「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」とエルサレムを訪問し、十字架の罪状書には「ユダヤ人の王」と記されています。これは偶然ではありません。
今日の箇所は王の即位式の記録なのです。力を以って支配し、人々の好む物を提供する王ではなく、愛と赦しによって支配する王です。存在そのものが罪である私たちがその支配に服し、お従いすることで私を真実に生かす王なのです。

2014年4月6日 「招きにふさわしく歩く」  
聖書:エフェソの信徒への手紙 4章1〜6節(1−3)   説教:
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。
神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。


体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。



  救い(1章-3章)が記された後、救われた者はどう生きたらよいかの倫理(4章-6章)が記されています。義とされて救われた者がどう生きるかであって、どう生きるかで救われるのではありません。
恐れ多いことですが天地の造り主の神様から、イエス様の十字架によって、無条件で赦され、受け入れられ、救われた私たちは、その招きにふさわしく生活します。その場所は教会です。倫理が語られますが、個人の人格形成としての倫理ではなく、信じる者の倫理、教会での倫理です。


「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく(神様がありのままの私を受け入れてくださったのですから、自分をひけらかす事もへつらう事もなく、人の目を意識するのでなく神様の前で自分をわきまえて生きること)、柔和で(苦しんだものが皆優しいのではありません。苦しみが慰められ、神様に涙をぬぐわれた者の優しさ)、寛容の心(神様の赦しに与っているので、仕返しをせず人を赦せる心)を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて(パウロが主に結ばれて囚人となったように平和・平安の囚人となって祈る者)、霊による一致を保つように努めなさい」


教会も家庭も人の集まるところは、放って置けば、必ず対立し分裂します。皆自分に仕えると言う鉄の憲法を持っているからです。自分中心、自己主張を戒めるのでなく、救いへ招かれている事に目を向け、そこから歩みを整えてゆくのです。