2014年5月25日 「わたしの宝」 | ||
聖書:出エジプト記 19章1〜6節 | 説教: | |
イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。 彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。 「ヤコブの家にこのように語り イスラエルの人々に告げなさい。 あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと。 また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを。 今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならばあなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる 世界はすべてわたしのものである。 あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」 |
出エジプト記1〜15章は、モーセの誕生から出エジプトまでの記事、16〜18章は紅海を渡った後のシナイ山までの旅の記事、19〜40章はシナイ山で与えられた十戒と幕屋の造り方が記されています。 シナイ山のふもとに来た時モーセは神様からこう言われました。 「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守ならば、あなたたちは全ての民の間にあって、わたしの宝となる」 山上億良は「銀も金も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」と歌いました。あまりに激しい飢饉や社会の歪みの中で、子を売ったり、子を食べたりする中で、こう歌い上げられた億良の子はどんな幸いなことでしょう。 神様が私を「宝」と言って下さいます。私たちは自分の醜さや不実を知っているますので、もったいなくて恐れ入ってしまいます。しかし、これを私たちはイエス様によって聞くのです。自分で自分を評価したり、見切りを付けるのではありません。信仰をもつことは自分の尊さに目が開かれることです。 神様の目に尊いものとされている自分が、心底・肝に・腹に入っていますか。これが信仰の勧所です 神様の契約を守ることが「宝」の条件であるなら、イスラエルも私たちも、たちまち失格です。 神様が私を選んでくださいました。とにかく宝として下さったのです。そこに立ち続ける、その恵みに身を委ねていく、その神様の恵に応えていくことで「宝」であり続けるのです。 |
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2014年5月18日 「キリストの体を建てる」 | ||
聖書:エフェソの信徒への手紙 4章7〜16節(11-13) | 説教: | |
しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。 そこで、 「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。 この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです |
「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆきます」 パウロの活躍した時代の教会の職制が記されています。現代の私たちのものとは異なり、時と共にあるものはなくなり、あるものは更に豊かにされて続いています。 パウロは聖霊の賜物を語るとき具体的な教会の制度を語ります。聖霊の賜物は自由奔放に与えられるのではなく、秩序の中で与えられるからです。聖霊が働かれるのには筋道があります。筋道とは神のみ言葉である聖書、それを整理した信仰告白、それを担う教会の制度です。世々の教会は、聖書と信仰告白と教会の制度(職制)を大切にしてきました。 私たちは一人一人が活ける肢としてキリストの体なる教会を造り上げていくように見えますが、事実はまったく逆です。神様によって召され、牧師として、信徒として、その賜物のはかりに従って与えられたところで教会に連なります。活ける肢としてキリストのお体に連なり続ける中で私たちは成熟した者へと造り上げられていくのです。 成熟とは、どれだけ自分を相対化でき、相手が見えるかです。イエス様によって愛されたので、愛されることを求めるところから愛する者へ、配慮されるところから配慮する者へと変えられることです。教会を建てることでそれを修練していくのです。 |
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2014年5月11日 「与えられている賜物」 | ||
聖書:エフェソの信徒への手紙 4章7〜16節(7-10) | 説教: | |
しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。 そこで、 「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。 この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです |
信仰生活とは教会生活です。キリストに結びつくとはキリストの体である教会に結びつくことです。そして、キリストの体なる教会には多くの人が結びついています。ですから最大の課題はどうしたらバラエティーをもちつつ一つになり、一致できるのかということです。 バラエティー(多様性)をもちつつユニティー(一致)を保つことは、体のことを考えればよく分かります。体にはどれ一つ同じ器官はなく、それでいて調和が取れています。パウロが教会の一致を説くとき、必ず人の体に喩えるのはそのためです。(ローマ12章、Tコリント12章) つまり、一致とは形の一致ではなく、目的のための一致です。 4章7〜16節は教会の中のバラエティーの部分(賜物の違い)を記しています。それは奉仕の違いです。 「しかし、私たち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」 キリストの体である教会に連なり、それぞれの仕方で仕えることは恵みなのです。それを忘れると人はいつのまにかそれを誇るか、そうしない人を裁きだします。 また恵とは自分が得をすることではなく、キリストの教会に連なり、賜物が与えられて奉仕できることです。そんなことは恵みではないと思うかも知れません。しかし賜物による奉仕で教会が建ち、その教会によって神様の臨在が天にも地にも陰府にまで伝えられ、私たちがどこにいても神様の赦しと愛とを信じて生きられる、それこそ最大の恵なのです。 それらのことに目を開かせてくださるのは聖霊の導きです。 |
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2014年5月4日 「一致の基礎」 | ||
聖書:エフェソの信徒への手紙 4章1〜6節(4-6) | 説教: | |
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。 神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。 体は一つ、霊は一つです。 それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。 主は一人、 信仰は一つ、 洗礼は一つ、 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。 |
信仰は場をもちます。そこで信仰が与えられ、全うされ、天国へ凱旋する場です。信仰に生きることを考えるとき第一に語られなければならないのはこの場です。それは教会です。そして教会で第一に考えなければならないことは一致です。 1節〜3節の「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて霊による一致を保つように務めなさい」の言葉は、一致するための方法です。 4節〜6節には一致の基礎が記されています。 「体は一つ(キリストの体である教会は一つで、私たちは違いを超えて教会に組み入れられました)、霊は一つ(教会に導かれ、信仰へと導かれたのも聖霊の働きでした)、一つの希望に与るように(信仰者は死で終わってしまわない希望でも一つ)と招かれているのと同じです」 「主は一人(ローマ皇帝や自分を主とするのでなく、救い主なる主は一人)、信仰は一つ(救い主が一人なら救い主への信仰も当然一つ)、洗礼は一つ(一度自分に死にキリストにつく洗礼、同じ主を信じて受ける洗礼は人によって違うのでなく一つ)、すべてのものの父である神は唯一である」 一致は後から作り出すものではありません。もともと教会は一つであったのです。違いがあるとすれば、信仰とは別のところからその違いは来ているのかもしれません。 その原点に目を向けてみなさいと言うのです。一致するために方法と根拠を、理性で知るだけでなく、隠れたところで隠れたことを見ておられる方の前に祭壇を築いて確認していくのです。 |
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