説教


2014年6月2日 「人の不信と神の真実」     
聖書:出エジプト記 32章1〜35節      説教: 
モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。
エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、 アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」 民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。 彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。
アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。 彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。

主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」 主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」
モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。 どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」
主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。 その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。
ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも/敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」

宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。 そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。
モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、 わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」
モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、 宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、 彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。
レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」

翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。」
モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。 今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」 主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」 主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。
  モーセが十戒を戴くために山に登っている間に、山の下では、こともあろうに、アロンを中心に「我々をエジプトから導いた神々」として金の小牛の像を造っていました。アロンはモーセに「あのモーセがどうなってしまったのか分からない」不安からですと言い訳します。偶像は神のためではなく自分のためなのです(出エジプト20:4口語訳)


 モーセは、その民のために身を挺して神様に執成をします。アロンは人の都合や事情を訴えましたが、モーセはそれらを一切口にせず、ただ神様の真実にすがります。「あなたがエジプトの国から導き出された民ではありませんか。…どうしてエジプト人に『あの神は滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。…どうかアブラハム、イサク、イスラエルを思い起してください。あなたたちの子孫を天の星のようにし、この土地を継がせると言われたではありませんか」


 モーセの言葉は、罪を脇に置いた開直りともとれます。真の信仰と不真実は紙一重です。人は不誠実であっていいのではありません。人はどんなに真剣に誠実に取り組んでも、不安や優柔不断から失敗してしまうのです。人が最後に立つところは神様の約束と真実です。自分の誠実さの中に神様を見るのではなく、神様の約束と真実の中に自分を見るのです。


 それは死の前の救いを考えればよくわかります。死は人の努力も誠実さも、何もかもを私から奪います。どんなことがあっても人を救うという神様の決意と真実に立ち続ける。これが信仰です。そこから日々の生活をとらえることです。

 

2014年6月22日 「偽りを捨てて真実を」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 4章25〜32節@     説教:  
だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。
盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。


神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。


  パウロは教会の中での具体的な歩みを語ります。

「だから偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」 
家庭でも教会でも、嘘があり、本当のことが語られなければ成り立ちません。又、人を騙すつもりはなくても自分を良く見せようと事実を粉飾します。また真実を語っても相手を傷つけることだってあります。全てが、キリストを愛するというフィルターを通してなされる必要があります。

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」 
義憤と言う言葉のように怒りがすべて悪いのではなく、又、怒りのない人はいません。ただ怒りにまかせて、日頃ならしない事をしてしまうことを心すべきです。また怒りを長続きさせると、それは怒りではなく恨みや憎しみに変わります。それで怒りにレールを敷き、長引かせてはいけないのです。

「盗みを働いていた者は、今から盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」 
盗みをしないのは当然です。しかし悪いことをしないだけならまだ半分しか生きていません。正しく生き、愛にも生きるのです。

「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人の恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」 
言葉は人を励ますものでもあり傷つけ打倒すものでもあります。言葉をただ意志の伝達手段とするだけでなく、人を立たせる恵みを運ぶ手段とします。

良いことをして神の子とされたのではありません。神の子とされているので、「だから」それにふさわしく振舞うのです。神さまの救いを知ることは私の尊さを知ることです。「わたしの目にあなたは値高く、尊い」(イザヤ43:4)とされていることを知らされたからです。
 

2014年6月15日 「新しい人を身に着ける」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 4章17〜24節A    説教: 
そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。
そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。


しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。
キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、 心の底から新たにされて、 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
 
  「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がキリストの内にあるとおりに学んだはずです。」


「キリストを学ぶ」と言います。「学ぶ」とは、弟子となると言うことです。単に知識や知恵を学ぶと言うことではなく、口の利き方が変わるほど薫陶を受け、生き方そのものが変えられることです。
しかも「キリストに学ぶ」のではなく「キリストを学ぶ」と言いますから、単なるキリストについての知識ではなく、キリストの生きざまで、あの痛ましい手続きによって私たちを赦し、愛し、受け入れてくださっていることを学び、知ることです。キリストの救いを学ぶことは、私の尊さを学ぶことです。


キリストを学ぶと私の中に二つの変化が起こります。これは二段階ではなく、二つが同時に起こるのです。
@古い人を脱ぎ捨てること。それは自分の思い欲がむき出しの生き方で、ときには情欲に惑わされます。キリストを知るまでの生き方で、私の深いところにあるものです。この生まれながらの自分との決別です。
A新しく神様のよって造られること。私を少し改造する事ではなく、神様による私の再創造です。キリストを心の王座にお迎えし、住んで頂くのです。(ガラテヤ3:26-27、Uコリント5:17)
これらのことによって「真理に基づいた正しい清い生活を送るように」なります。清い生活とは、もともとは神の恵みに感謝する生活ということです。人を真に生かすのは、恨みや不平ではなくこの感謝なのです。感謝があるかどうかが新しい人を着たかどうかのカギです


洗礼によってそれが成っている事に気づいていますか。そして自分の尊さに。

2014年6月8日 「神なき生活のむなさ」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 4章17〜24節@   説教: 
 そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。
そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。


しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。
キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、 心の底から新たにされて、 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。



  「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。」


異邦人キリスト者は誘惑の中に住んでいますから、いつ、かつての神なき生活に戻ってしまうか分かりません。そこでパウロは強く勧めます。
「愚かな考え」とは、むなしい、神不在の生き方です。自分の価値観、人生観に従って生き、その基準は自分にとって得か損か、好きか嫌いか、したいかしたくないかなのです。
「知性は暗くなり」 神なき生活は自分を超える視点を持ちませんから自分を相対化できずに、謙遜でなくなります。愚かさとは自分の愚かさが見えなくなることで、それほどの暗さです。 
「彼らの中にある無知」とは神様に対する無知です。知識として神様を知らないのではなく、神様によって与えられる愛、喜び、赦し、平安などを知らないのです。 
「その心のかたくなさのために」石のような心になり、良心の呵責も神の裁きにも鈍感になり、「神の命から遠く離れています」「そして、無感覚になり」、自分の利害には敏感ですが、外から与えられる良い事には反応しません。
「放縦な生活をし」 放縦とはもっとほしがる生活です。何でも欲しがり、「あらゆるふしだらな行いにふけって」とどまることがありません。


神なき生活がいつもそんなものではないでしょう。しかし、そこに落ち込む危険性をいつも持っていますので、パウロは強く勧めるのです。
 

2014年6月1日 「愛による成長」  
聖書:エフェソの信徒への手紙 4章7〜16節B   説教:
しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。
そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。
「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。
この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。
そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。
こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。


こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、
むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
  「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」


教会がこの世にあって、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変りやすい教えにもてあそばれたり、引き回されたりされないためには、真理に生きる必要があります。
この真理は勿論福音の真理です。そこに立ち、それをどう生きるかが問題なのです。愛の裏打ちなしに真理が実行されれば、真理が自己宣伝のために用いられたり、相手の攻撃のためであったりして、かえって混乱を招きます。正しければいいというものではありません。真理にはいつも愛の裏打ちが必要なのです。


しかし理屈では分かっていても実行は難しいのです。第一、愛であるかどうかが怪しいのです。相手のことを考えて真理を語り、実践しているように思っても、自分の計算が入っていないとは言い切れません。
そうすると「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長する」という意味がはっきりします。頭であるキリストに向かって行われるわざ、ここで初めて愛がはっきりします。キリストのお心を問うところで、その愛にフィルターにかけられ、純粋なものとなります。このようにして成長させられるのです。


成熟・愛とは、相手の立場に立ち、一緒に生きる喜びを味わうことです。教会で、家庭で。
「もしあなたが、誰かに期待したほほえみが返されなかったら、不愉快になる代わりにあなたの方からほほ笑みかけてごらんなさい。実際ほほ笑みを忘れたその人ほど、あなたのほほ笑みを必要としている人はいないのだから」                          (渡辺和子)