説教


2014年7月20日 「神が共にいますということ」     
聖書:出エジプト記 40章16〜38節    説教:   
 モーセは主が命じられたとおりにすべてを行った。

第二年の第一の月、その月の一日に、幕屋が建てられた。 モーセは、まず、台座を置き、壁板を立て、横木を渡し、柱を立てて、幕屋を組み立てた。 次に、幕屋の上に天幕を広げ、更にその上に天幕の覆いを掛けた。主がモーセに命じられたとおりであった。
次に、彼は掟の板を取って箱に入れ、箱に棒を差し入れ、箱の上に贖いの座を置き、 その箱を幕屋の奥に運び入れた。そして、至聖所の垂れ幕を掛け、掟の箱を隔てた。主がモーセに命じられたとおりであった。
また、机を臨在の幕屋の中の垂れ幕の手前、幕屋の北側に置き、 その上に供えのパンを並べ、主の御前に供えた。主がモーセに命じられたとおりであった。更に、燭台を臨在の幕屋の中の、幕屋の南側に机と向かい合わせて置き、ともし火を主の御前にともした。主がモーセに命じられたとおりであった。 また、金の祭壇を臨在の幕屋の中の垂れ幕の前に置き、 香草の香をその上でたいた。主がモーセに命じられたとおりであった。
次に、幕屋の入り口に幕を掛けた。この幕屋、つまり臨在の幕屋の入り口に焼き尽くす献げ物の祭壇を設け、焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をその上でささげた。主がモーセに命じられたとおりであった。 次いで、洗盤を臨在の幕屋と祭壇の間に据え、それに清めの水を入れた。その水でモーセ、アロンおよびその子らは、自分の手足を清めた。彼らが臨在の幕屋に入るとき、あるいは、祭壇に献げ物をささげるときは、水で清めるのを常とした。主がモーセに命じられたとおりであった。
最後に、幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の入り口に幕を掛けた。モーセはこうして、その仕事を終えた。

雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。 モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。 雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。 雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。 旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。
  出エジプト記1〜18章には、モーセの導きでエジプトを脱出してからシナイ山までの旅路の様子、19〜30章には、シナイ山での十戒と幕屋や祭司の服の作り方の指示、40章には、完成した幕屋の奉献の様子と約束の地への旅立ちが整ったことが記されています。
      

幕屋は縦15m、横5m、高さ5m約25坪ほどの天幕です。その中には縦112p、横67p、高さ67pの純金で内外が覆われた聖所があり、聖所の中には十戒、マナの入った壺、アロンの杖などが入れられていました。この後イスラエルの民はこの幕屋を中心に荒野の旅を続け、神様も雲の柱、火の柱で臨在を証して下さいました。約束の地に入ってからはソロモンが幕屋を二倍にした神殿を造って国造りをし、イスラエルの民は信仰を保持し続けました。
 

かつて神様は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」として顕れて下さいました。聖書の神様は、神道のように土地に結びついた神ではなく、人に結びついた神様です。神様はその人がどこへ行っても共にいて下さいます。どこででも一緒にいて下さいますので、定められた時(安息日、主の日)と所(幕屋、神殿、教会)で(列王記上8:27−29)それを覚えます。  


 「雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発し、…雲が離れて昇らないときは…離れて昇る日まで出発しなかった」
神様が共にいて下さることはなんと幸いなことでしょう。しかし神様が共にいて下さるということは、私も神様と共に歩むということでもあります。出発したくないこともあるでしょうし、もっと進みたいとも思う時もあるでしょう。しかし雲の柱、火の柱の導きに従うのです。信仰は、我がままを助長したり、私の欲望の応援団ではないのです。

 

2014年7月20日 「神にならう者となる」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 5章1〜5節(1−2)    説教:  
 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
:

あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。
卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。
すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。

   「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神にならう者となりなさい」

神にならうことなど人には無理です。しかし、私たちは神様に目が開かれて救われました。神様を知る前と知った後とが同じ生き方ということはありえません。救われたら救われた生き方が出てくるはずです。その神様に応える生き方、それが「ならう」ということです。
ですからこのことは全ての人に言えることではありません。「あなたがたは神に愛されている子供」だからです。
また、誰でも、愛されたら愛されっぱなしと言うことはありません。愛されたら必ず愛し返すはずです。神に愛され、神を愛する者、それが神にならう者なのです。
しかしならうといっても上辺のことではありません。

「キリストが私たちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして私たちのために神に捧げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」

キリストにならって、いけにえとして自分を捧げることなど私たちには出来ません。キリストは私たちがその愛の中で生きられるように犠牲となってくださったのです。確かなものが何一つない人の世で、ただ神様の愛だけは信じて生きられるのです。

「むつかしい路もありましょう。しかしここに確かな私にも出来る路がある。救って下さると信じ、私をなげだします」(八木重吉) 神様の愛にどっぷり漬かって、その愛に応えて生きる、それが神にならうことです。

2014年7月13日 「喜びを見つける生活」     
聖書:フィリピの信徒への手紙 4章4〜7節    説教: 
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
フィリピの信徒への手紙/ 04章 07節

そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
  「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」

喜ぶことはすばらしく、幸いなことだと私たちは知っています。人生の手応えは喜びや感謝の中にありますし、愚痴や不満は生きる手ごたえをそいでいくからです。

どうしたら喜んで生きられるのでしょうか。私たちの周りには美しい話や喜ばしい話はめったにありませんし、かえって腐らせる話ばかりです。現実を知っているのでいつも喜ぶことなどできないと思います。しかし、そのような時の私たちは、事態に対して受身です。カメレオンのように、周りの状況によって赤くなったり青くなったりしているのです。

「主において常に喜びなさい」と言います。イエス・キリストは十字架によって私たちを神様に結びつけてくださいました。神様はいつも私の味方となって共にいてくださるのです。私たちは恐ろしい運命のもとにいるのではありません。地上では黒雲が覆い、雨が降っていてもその上には太陽が輝き、抜けるような青空が広がっているのです。一時暗さの中にあっても、神様の愛が私たちをおおっているのです。それをテコに喜びを見つけていくのです。

喜びは、与えられるものではなく見つけるものです。それによって人生の手ごたえを味わっていきます。喜ぶことは、自分が幸いなだけでなく、周りの者も幸いに巻き込んでいきます。

2014年7月6日 「悲しませない」  
聖書:エフェソの信徒への手紙 4章25〜32節(30−32)   説教:
だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。
悪魔にすきを与えてはなりません。
盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。


神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。



  「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されています。」

私たちは独りで生きているのではありません。家族や友人の中で生かされています。しかし、いつの間にか自分の中から他人が消えてしまう時があります。本当はその人の失敗に心を痛め、成功を自分のことのように喜んでくれる人がいるのですが。
それは人だけではありません。神様もそうです。神様は独り子を遣わし、人が愛の内に生きることが出来るようにしてくださいました。そう信じて生きられるように私たちの内に働きかけてくださるのが聖霊です。身内の眼差し、神様の配慮、これをどれだけ意識しているでしょうか。


「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」 

聖霊を悲しませることが形に現れるとこのような行為をとります。普段この一つでもあったら家庭や教
会は続きませんが、家庭や教会が崩壊する時にはこれがあらわれます。私たちの交わりはいつそうなるか分からないのです。努めてこのことを意識し、心する必要があります。


「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」

これが聖霊を喜ばせることが形にあらわされた姿です。私たちの生きる手応えや喜びはここにあります。
自分の思いどおりに生きることでなく、隣人と一緒に生きる喜びの中です。