2014年8月31日 「つぐないの必要」 | ||
聖書:レビ記 5章20〜26節 | 説教: | |
主はモーセに仰せになった。 主を欺き、友人を偽る罪を犯した場合、すなわち預り物、共同出資品、盗品を着服または横領し、 あるいは紛失物を着服しておきながら、その事実を偽り、人たるものがそれをしたら罪となりうることの一つについて偽り誓うなら、 すなわちこのような罪を犯すならば、彼はその責めを負い、その盗品、横領品、共同出資品、紛失物、 あるいは、その他彼が偽り誓ったものが何であれ、すべて返さねばならない。彼はそれを完全に賠償し、おのおのの場合につき五分の一を追加する。責めを負うときは、一日も早く所有者に支払わねばならない。 それから彼は償いとして、相当額の無傷の雄羊を群れから取って、主にささげ賠償の献げ物とする。 祭司が彼のために主の御前で罪を贖う儀式を行うと、責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる。 |
イスラエルの民は、モーセによってシナイ山で律法が与えられ、幕屋の作り方が教えられました(出エジプト記)。幕屋を用いてどう神様を礼拝するかを教えたものがレビ記です。 大きく分けると@1〜7章・何をもって神を礼拝するか(供え物)、A8〜10章・誰によって礼拝するか(祭司)、B11〜20章・礼拝する民(聖なる民)、C23〜25章・いつ礼拝するか(祭り)が記されています。 1章から7章には、動物の「焼き尽くす捧げ物」、焼き尽くす捧げ物で「穀物の捧げ物」、「和解の捧げ物」(感謝、誓願、誓願成就)、「贖罪の捧げ物」(神様との間の罪の赦し)、「賠償の捧げ物」(人との間の罪の赦し・賠償)の規定が記されています。 ここには、そして聖書には、二つの前提があります。 第1は、人は神様の前に生きるということ。人が神様を創ったのでも、人が認めたので神は存在するのでもなく、神様は絶対的存在です。この神様の前で人の罪は測られ、問われます。神様の視線を意識しない者、人の視線の中で生きる者には、罪ではなく恥としてしか意識されません。 第2は、罪にはどうしても償いが必要ということ。自分の罪を告白して赦しを乞うても、罪にはそれに見合う償いが必要なのです。償いのない罪の赦しはありえません。 レビ記は動物で罪の償いをしましたが、キリストが十字架でつぐなって下さいました。ですから、私たちは天下晴れて神様の愛の中で歩み続けられるです。 聖書の救いは関係の救いです。関係を壊すのか罪であり悪です。それを修復するのか愛であり赦しです。 |
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2014年8月24日 「感謝へ押し出される礼拝」 | ||
聖書:エフェソの信徒への手紙 5章15〜20節 (18−20) | 説教: | |
愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。 |
この箇所は礼拝との関連で読めばよく分ります。6-14節では光の子として歩むことが薦められ、21節からは夫婦、親子、奴隷と主人の関係が教えられています。光の子とされたあと、それぞれの人間関係の中で生きることをつなぐのは礼拝だからです。 「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」 飲酒を禁じているのではありません。口語訳では「酒によってはいけない。それは乱行のもとである」と訳していますが、お酒を飲めば酔いますから、新共同訳では「酒に酔いしれてはなりません」と訳しました。お酒は気分を高揚させ、心の拘束から人を解放します。その意味で信仰と似ています。信仰によってなされるべきことをお酒で誤魔化してはならないのです。 「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊の歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」 お酒を飲むと放歌高唱します。お酒を飲んでいい気持ちになるのでなく、聖霊に満たされ、語りあい、歌いなさいと言うのです。 「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」 これで思い出すのは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(Tテサロニケ5:16-18)のお言葉です。私たちは日々の生活をこのように生きるのですが、それは礼拝によって押し出されて出来るのです。 私たちを支配しているのは恐ろしい運命や虚無ではではありません。今苦しい事があっても決してあきらめない。礼拝でその神様の愛の支配を知らされ、それをほめたたえ、勇気をいただきます。 そこから日々の生活に帰ります。 |
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2014年8月17日 「賢い生き方」 | ||
聖書:エフェソの信徒への手紙 5章15〜20節 (15−17) | 説教: | |
愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。 |
賢く生き方とは、時の生かし方と、時の中で何を選び取るかにも関係します。 「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」 「よく用いる」とは、私たちが買い物をするとき品物を選びとるように、流れる時の中からチャンスを選び取ることです。時はいつまでも流れ続けるのではありませんし、いつ止まるかもしれません。『今いまと、今と言う間に今ぞなく、今と言う間に今ぞ過ぎ行く』なのです。 「悪い時代」とは、闇の支配する時です。人は生きにくいのですが、信仰に立って生きようとする者にとっては尚更です。時をよく用いるのは悪い時代だからです。信仰の立とうとする者に取って困難と制約のある時代だからこそ、時を買い取るように用いていくのです。パウロはこの手紙を明日の命を保証されない牢屋の中で書きました。 「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」 信仰者は「御心の天に成るごとく地にもなさせたまえ」がその生き方の姿勢です。時をよく用いるのは、自分の願望を実現するためではなく、本当のこと、主のお心を行うためなのです。 暗闇の中での自分中心の生き方から、キリストの愛と赦しを知らされて光の子とされました。隠れたところで隠れたことを見ておられる神様の前に祭壇を築いて、時を用いて、主の御心を求めて生きるのです。 |
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2014年8月10日 「光の子として生きる」 | ||
聖書:エフェソの信徒への手紙 5章6〜14節 | 説教: | |
むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。 光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―― 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。 しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 |
聖書は、信仰が与えられる前と後の生活を、光の生活と暗闇の生活と言っています。 光の子の歩みは、明るさと喜びに満ち、周りの人を照らします。光から生じるものは、「何が主に喜ばれるかを吟味する」生き方で、善意(悪意の反対で、人に親切と憐れみをもって接すること)、正義(神の前に正しく生きること)、真実(神の真理に従って生きる姿が真実な生き方となる)です。光の子はいつも隣人が見えています。 実を結ばない暗闇の生活は、そのしていることを口にすることさえ恥ずかしいことで、自分ひとりの生活で、隣人は自分にとって都合がいい人か、利用することとしか見ていません。 暗闇から光に変えられるためには、暗闇の業を光にさらすことです。「全てのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされたものはみな、光となる」からです。他人の暗闇の業を明るみに出すことではありません。私の暗闇の業を神様の愛と赦しの光の中にさらすのです。するとまるで月が太陽の光に照らされて光り輝くように、私も光となります。 放蕩息子が父の元を離れて自立しようとしました。しかし金を使い果たし、飢饉にも見舞われ、友達にも見捨てられ、暗闇の中で這いずり回った末に、父の元に帰ります。死んでいた彼は父の赦しと愛の中で生き返ったのです。光の子として生きるとは、日々、父なる神様のもとに帰ることです。 |
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2014年8月3日 「自覚と誇りをもって生きる」 | ||
聖書:エフェソの信徒への手紙 5章1〜5節A | 説教: | |
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。 あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。 卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。 |
「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」 私たちを救ってくださった神にならうとは、積極的には愛に生きること、消極的には淫らなことや汚れたことと決別することです。 聖書は全巻を上げて不品行を戒めています。パウロも何度も何度もこれを戒めています。その結果や影響を考えれば当然ですが、それは神様の前では行えず、人にも隠れてする闇の業なのです。 「みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」 口にすると心の中にある漠然としていたものが明確な形を取ります。ですから口にしてはならないのです。逆に口にしてはっきりさせなければならないこともあります(ローマ10:9)。 「それよりも、感謝を表しなさい」 貪欲なことを口にするなと言い、その後「まじめなことを口にせよ」ではなく、感謝を口にせよと言います。感謝とはあるがままを受け入れることです。神様の愛の支配を信じてあるがままを受け入れて感謝する。感謝に対して逆の言葉が貪欲です。貪欲はあらゆる物を欲しがることで、根にあるのは不満です。不満なのでそれを満たそうとして貪欲になるのです。汚れたことをするのは生活に不満があるからです。神様のして下さること、更に神様そのものを感謝して初めて貪欲から解放されます。 本来私たちは神の国を継ぐはずの者でした。自分の欲望が中心で、神を神としない者は神の国を継ぐことは出来ないのです。これは世間の人のことではなく信仰者への警告です。 |
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