説教


2014年9月28日 「とりなす祭司」     
聖書:レビ記 8章1〜17節    説教:   
主はモーセに仰せになった。
アロンとその子らに、祭服、聖別の油、贖罪の献げ物の雄牛一頭、雄羊二匹と酵母を入れないパンを入れた籠を携えて来させなさい。
また共同体全員を臨在の幕屋の入り口に召集しなさい。モーセが主の命じられたとおりに行うと、共同体は臨在の幕屋の入り口に集まった。
モーセは共同体全員に向かって、これは主の命じられたことであると言った。
モーセはアロンとその子らを進み出させて、彼らを水で清めた。
そしてアロンに長い服を着せ、飾り帯を付け、上着を着せ、更にその上にエフォドを掛け、その付け帯で締めた。 次に胸当てを付けさせ、それにウリムとトンミムを入れた。 また頭にターバンを巻き、その正面に聖別の印の黄金の花を付けた。主がモーセに命じられたとおりである。
続いてモーセは聖別の油を幕屋とその中のすべてのものに注いで清め、その油の一部を祭壇に七度振りまき、祭壇とすべての祭具、洗盤およびその台に注ぎかけて聖別した。
次に、聖別の油の一部をアロンの頭に注ぎ、彼を聖別し、 続いて主の命じられたとおり、モーセはアロンの子らを進み出させ、彼らに長い服を着せ、飾り帯を締め、頭にターバンを巻いた。
モーセが贖罪の献げ物の雄牛を引いて来させると、アロンとその子らは手を献げ物にする牛の頭に置いた。
モーセはそれを屠り、血を取って指で祭壇の四隅の角に塗って祭壇を清め、残りの血は祭壇の基に流した。モーセはこのように罪を贖う儀式により祭壇を聖別した。
次に、牛の内臓に付着するすべての脂肪、肝臓の尾状葉、脂肪に覆われた二つの腎臓を取り、モーセは祭壇の上で燃やして煙にした。
しかし牛のほかの部分、つまり皮、肉、胃の中身などは主の命じられたとおり、宿営の外で焼却した。
  レビ記8章−10章には、アロンの大祭司任職、大祭司としての捧げ物の初執行、二人の子どもの死と嘆きが記されています。

祭司の任職には油が注がれます。
「油注がれる者」がメシヤで(ギリシャ語ではキリスト)、王の即位、預言者の任職にも油が注がれます。イエス様がメシヤと言われるのは、この三つの職務がイエス様に於いて完遂されるからです。
王は神様の義と平和をその支配の中で映し出し、自分の命に代えても民を守ります。預言者は神様のお心を語ります。慰めと、時には聞きづらいことも語り、神様の側に立って人々に語ります。祭司は逆です。人の罪を神様に執り成しますからどれだけ人の弱さや破れを知っているかが大切なのです。

アロンは、モーセがシナイ山に登っている間にイスラエルの民と共に金の子牛の像を作りましたし、二人の子どもは異なった炭火を炊いて神様に打たれました。最初の大祭司アロンは、自分の罪と人の弱さ・悲しみを背負って大祭司として任じられ、勤めをはたします。

「この大祭司(イエス様)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、…大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:14-16)
人には、執り成しをしてくださる者が必要です。生きている限り人は失敗します。失敗した人に必要なのは、注意以上に「分かっているよ、頑張ったけれど歯車が違ったんだね、でも一緒に頑張ろうね」という執り成しと励ましです。私たちにはそっと見守ってくださる隣人と、取り成してくださる大祭司イエス様がいるのです。

2014年9月21日 「妻を愛しなさい」      
聖書:エフェソの信徒への手紙 5章21〜33節(25−28)     説教:  
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。

妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。

夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとししみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」
この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。
いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。  
  米ソの冷戦のさなか、アメリカの有識者が「ソ連については、屈服するか嫌いになるかのどちらかしか道は残されていないが、大事なことは、嫌いであっても共存しなければならないと言うことを理解することだ」と言っていました。これはすごい言葉です。皆が一緒に生きる、それは分かれることの困難な夫婦にも言えることなのです。そうはわかっていても、相手を丸ごと受け入れ、愛せるのでしょうか。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」

愛するとは、聖書特有のアガペーであって、エロースの愛ではありません。エロースの愛は肉欲の愛ということではなく、本来は、美しいこと、価値あるもの、わたしにとって有用なものを愛することです。しかし、私にとって愛するに値するものを愛するのではなく、自分を嫌い、自分に反感を抱いている者、いわば敵をも愛するアガペーの愛で愛せよというのです。

キリストは私たちが神様の敵であった時に、肉を裂き、血を流して私たちを赦し、受け入れてくださいました.「妻を愛せよ」と言われていますが、私がアガペーの愛で愛され、赦されたということに立って、そこから押し出されることなのです。
夫婦が互いに愛し合うことは難しいことではなく、愛し合わないことのほうが不自然なのです。愛をもって相手に接すれば愛が返ってきます。憎しみをもって接すれが憎しみが返ってきます。愛さないことは自分を憎むことなのです。
私たちは「愛する」ことからでなく、「愛されている」ことから出発出来ないでしょうか。

2014年9月14日 「夫と妻のこと」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 5章21〜33節(22−24)    説教: 
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。

妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。

夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとししみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」
この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。
いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
  「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。…夫たちよ、…教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」

この言葉に、ある者はニヤリとし、ある者は憤慨します。この言葉は従属の勧めではありませんし、男女の上下の関係を語ったものでもないのですが。
聖書が書かれた当時は、男性の両親から女性の両親に結納金が払われ、夫は妻を所有する者、妻は所有される者となりました。十戒の第十の戒めもここに根があります。ギリシャ・ローマでは話にならない程、婦人・子供・奴隷など社会的弱者の権利はありませんでした。
そんな中で聖書は「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」(ガラテヤ3:28)と、当時では考えられない画期的なことを宣言しています。
聖書の教えが基本になって現代のさまざまな差別をなくしてきたのですが、差別から解放されつつある現在から見ると、聖書の言葉がむしろ差別を助長すると考える人もいます。

この箇所は夫婦の教えですが、パウロはキリストと教会の関係で夫婦の関係を語ります。敵意と憎しみに満ちたこの世が救われるためにキリストが赦しと愛の道を開き、教会が建てられました。家族が救われるのもこれと同じなのです。家族は、権利・義務の上に立つのではなく、憎しみと悪の連鎖からも解放される。赦しと愛、仕えられ愛されるという教会を生かすのと同じ原理の上に立って家族は完成するのです。

 

2014年9月7日 「互いに仕え合いなさい」  
聖書:エフェソの信徒への手紙 5章21〜25節(21)   説教:
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。

妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。


  「キリストの対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」

この手紙が書かれた当時、夫婦・親子・主人と奴隷の関係は社会の三本柱でした。具体的な人間関係を記すにあたって、聖書はその関係の中心を「互いに仕え合うこと」と言います。
人間関係の深いところでは、損得、権利・義務ではありあません。
私たちはどこで生きるかと共に、どう生きるかも問題なのです。

信仰生活は神様に救われた者の生活です。日曜日の「主の日」に礼拝を守ること、日々隠れた祭壇を築いて祈ること、といった外側のこともありありますが、内容的には互いに仕え合う生活と言えます。信仰が与えられるまで、私たちが求めていたものは、自分が大事にされ、仕えてもらうことでした。しかし、イエス様を知ってからはその生き方が根底から変りました。
人は如何に多くのものを得、人の上に立つことかで評価されるのも事実です。努力して財をなし、博学な知識を得、権力を持って人を導く、それで人の人生は評価されます。しかし、まったく逆の評価の基準もあります。マザーテレサは人に与え、仕え尽くすことで評価されました。
畏れ多いことに神の子イエス様が私たちに仕えて下さったのです。これを知って価値観が一変しました。仕えるさわやかさを知ったのです。

仕えることは、愛や赦しと一つです。イエス様の愛と赦しを知り、イエス様から仕えられ、自分の尊さに目が開かれました。自分が生きると共に相手も一緒に生きる。どうしたら相手が生きやすいように出来るか、それが「仕える」ことなのです。信仰者はここに立ちます。信仰をもつことは価値観が変わる事なのです。