説教


2014年10月28日 「赦し」      
聖書:マルコによる福音書 2章1〜12節     説教: 細田 隆 五日市伝道所牧師
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 四人の男が中風の人を運んで来た。
しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
 
  カファルナウムの家にイエス様がおられた時、戸口あたりまで人がいっぱいで、隙間もないほどでした。そこへ中風の人を4人の男たちが運んできて、その病人の床をイエス様がおられるあたりへ、屋根をはがして釣り下ろしました。イエス様は感心され、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。

その中風の人は二つのことから解放されました。一つは病の不自由さであり、もう一つは人間であればだれにも共通する罪でした。しかし聖書はその人が病気であるのは、その人の罪のためであるとは言っていません。キリスト教は、人間の病や不幸はその人の罪のためであるとは考えません。

しかし私たちのこの世界は、神様が造られた自然の法則の中にあります。だから、その中で原因と結果という出来事も存在します。病や不幸は神様のご意志ではありませんが、病気の原因があれば、結果として病にかかるという現象も存在します。しかし聖書はそれで終わってはいません。「奇跡」という神様の完全な力が、私たちのこの世界に時あるごとに介入してきます。この中風の男性も自然の法則の中で病にかかりましたが、神様の奇蹟によって、それから解放されました。

イエス・キリストが世に来られ、完成してくださった救いの業により、新しい完全な創造がなされます。そこに現れるのが病や不幸や死のない新しい神の御国です。神様は常に私たちと共にいて、神の国のキリストの命の力によって、私たちを罪から救い、病や不幸からも救い出されるのです。

2014年10月19日 「神の国への巡礼」      
聖書:ヨハネの黙示録 1章4〜6節 、7章9〜17節    説教:大宮 溥 阿佐ヶ谷教会名誉牧師
ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。
見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、 大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」
また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、 こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」
すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」
そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」
  「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」「死者の中から最初に復活した方」

ヨハネの黙示録は、神の民が「神の国への巡礼」の旅をする姿を描いています。父なる神が創造された世界と人間は、敬神愛人の「神の国」という目標に向かっていましたが、始祖の人間の堕罪によって挫折しました。イエス・キリストは十字架と復活によって、神の国の基礎を据えられました。神の国はまだ完成していませんが、我々は終末の完成に向かって、巡礼の旅を進めます。

「誰にも数え切れないほどの大群衆」[かられは大きな苦難を通って来た者で、その衣を子羊の血で洗って白くしたのである]

黙示録の7章後半は、神の国への巡礼の旅を既に終えた旅人たちが、天上に移され、天上の礼拝に加わっている情景が描かれています。この個所は旧約聖書の「仮庵の祭」をモデルにしています。それは約束の地への旅を、神も幕屋を張って保と共に過ごされたことを記念するものでした。新約の神の国への巡礼の旅でも、神は礼拝において民と共にいて、憩いと祝福を与えられます。
神の国への巡礼において、神の民は「大きな苦難」を経験し、その衣は汗と埃と地で汚れます。しかし、キリストの血はそれを洗い清めます。現代も「我々は地球規模の危機の時代を生きています。経済的、生態学的、社会的、精神的なチャレンジを受けています。闇と死の影、苦難を迫害の中にあって復活の主からの希望の賜物は何と尊いことでしょう。我々の心に注がれている聖霊の炎に燃やされて、我々はキリストが世界を輝かせてくださるように祈ります。…キリストの光は、我々の全存在を変えて、被造世界全体のために心配りし、すべての人を神の像として受け入れさせます」(WCC総会メッセージ)

2014年10月12日 「子よ、両親に従いなさい」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 6章1〜4節    説教: 
子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。
「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。
「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。

父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
 
  夫婦の関係を語った後、親子の関係を語ります。結婚したら子が与えられますが、子は両親の子であることを、親は与えられたその子を、自然のこととしてではなく信仰をもってとらえ直すのです。

70歳になっても大陸に残された日本人孤児が親を尋ねます。自分の命のルーツをはっきりさせたいのです。育ての親の恩は骨身にしみていても、自分がだれの子なのかということは人生の土台であり、踏ん張って生きられる基礎なのです。
『父と母を敬いなさい』は十戒の戒めですが、これは出エジプトの出来事と同時に語らなければならないと言われています。イスラエルがエジプトから救い出された過ぎ越しの祭りの起源について、子は親に問い、親は先祖になされた神様の救いの出来事とこの世を支配する神様を、言葉と食事で子に伝えます。それが親の責任です。
新約聖書に生きる私たちは、神様に結び付けられ、愛の支配の中で生かされていることを子に語ります。

子は自分を産んで慈しんで育ててくれたから敬うこともありますが、それだけなら育児を放棄する親だっていますし、産んでもらわなかった方が良かったと思う子だっています。
肝心なことは、子はその生命の背後に親を通して神様を見、親は子の背後に神様の御手を見ているかどうかです。親は子どもの命の通路になっていますが、人生の救いの通路にもなるのです。子はそれを見ることです。


2014年10月5日 「結婚・偉大な神秘」  
聖書:エフェソの信徒への手紙 5章21〜33節(29−33)   説教:
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。

妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。

夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。

わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。

「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」 この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。
いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
  「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」

創世記2章には人の創造の様子が記されています。神様は土(アダマ)の塵で人(アダム)を造り、その鼻に神の息を吹き入れ、人は生きる者となりました。動物は違います。同じように土の塵で作られますが、神様の息吹に生きることはありません。神様・永遠なるかたに結びついているのは人間だけなのです。
その人格的な関係に生きるために、伴侶が与えられました。これが結婚です。愛し合ったので二人は一緒になったのですが、神様との愛を映し出すために二人は一体となったのです。人はなぜ結婚するかも大切ですが、何のために結婚するかを知ることはそれ以上に大切です。

しかし、その麗しい関係にも罪が影を落とします。二人は愛し慕いあうと共に、うとましくいがみ合う関係ともなるのです。聖書は結婚をキリストと教会の関係で記していますが、ここでその理由がはっきりします。
一緒に生きなければならないのに愛し赦し合えない。そんな私たちをキリストは赦し、教会に招いてくださいました。教会は赦す人の集まりでなく、赦され愛された人の集まりです。この教会の在り方が、そのまま夫婦のあり方を映し出しています。

結婚はいつもキリストの赦しと愛に生き、その人格的交わりを映し出すところでする。創造の秩序(結婚)は恩寵の秩序(教会)で完成するのです。