説教


2014年11月30日 「聖なる者となる」
聖書:レビ記 11章41〜47節 説教:
 地上を這う爬虫類はすべて汚らわしいものである。食べてはならない。
すなわち、腹で這うもの、四本ないし更に多くの足で歩くものなど、地上を這う爬虫類はすべて食べてはならない。汚らわしいものである。あなたたちはこれらすべての爬虫類によって自分自身を汚らわしいものとしてはならない。これらによって汚れ、それによって身を汚してはならない。
わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。地上を這う爬虫類によって自分を汚してはならない。 わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。
以上は動物、鳥類、魚類、および地上を這うすべての生き物についての指示であり、 汚れたものと清いもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とを区別するためである。
「わたしはあなたたちの神となるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(11:45)


レビ記11−16章は清めについての規定です。食べてよい動物と汚れていて食べてはならない動物(11章)、出産の規定(12章)、皮膚病の規定(13・14章)、各種の漏出の規定(15章)、年に一度の民の汚れを清める規定(16章)が記されています。
これは聖なる神様を信じる者として、汚れからどう身を守ったらよいかを記しています。
 

初めはタブーとして、汚れたものに触らないことが清い生き方だと考えられてきました。しかし本当の汚れは外側のことではなく、内側のことなのです。どんなに身を清め、汚れたものに触らなくても、汚れは内側から出てきます。時共に汚れは罪と関連してとらえられました(エレミヤ13章
23節、マルコ7章)。


 神様のみ心は、私たちが神様を信じて歩む者として、清く生きることです。そのために神様はイスラエルを奴隷の家、エジプトから導きだして清めの規定をお与えくださいました。それは外側のことです。
それでは不十分でした。それでついに、イエス様によって私たちの汚れと罪を引き受けて、聖なるものとして歩む道を備えてくださったのです。

2014年11月23日 「神の武具を身に着ける」      
聖書:エフェソの信徒への手紙 6章10〜20節(14−15)     説教: 
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。


だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。


なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。  
  信仰をもつと平安が与られ、委ねることが出来、こだわりから解放されますから幸いです。しかしその信仰には闘いがあります。信仰に生きようとすれば、どうしても避けてはならない闘いがあります。最後にパウロが言いたかったのはこの闘いのことでした。
6:14−15は、身につける武具について記します。悪魔的な罪との戦いは、素手で向かえば負けるに決まっていますが、神の武具を着ければ必ず勝てます。


「真理を帯として腰に締め」ます。古代の服には帯が必要でした。帯が全体をまとめます。罪と死におびえ、不安と強がりの中で生きてきた私たちのために、神様は御子を遣わし、十字架と復活で救いの道を開いてくださいました。真理とは神様が行ってくださった救いの真理です。


「正義を胸当て」とします。私たちは正しくなければ立てませんが、その正しさが曲者なのです。戦争も、嫁と姑の争いも自分の正しさを主張する争いなのです。
この事と戦ったのはパウロでした。自分の義で神様の前に立つことが不可能である事を知り、キリストの十字架によって与えられる義に立ったのです。
敵は「それでもクリスチャンか」と罪をあばき立てます。神様によって義とされた胸当てをするのです。


「平和の福音を告げる備えの履物」を履きます。聖書の平和は、戦いのないことではなく調和です。神様との間が平和となり、自分を赦せ、隣人との平和へと押し出されます。「あなた様も神様と平和の関係にあるのですよ」「あなた様に神様の平安がありますように」と伝え、祈るのです。
 

2014年11月16日 「私たちの闘い」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 6章10〜20節(10−13)    説教: 
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
   信仰をもつと平安が与られ、委ねることが出来、こだわりから解放されますから幸いです。しかしその信仰には闘いがあります。信仰に生きようとすれば、どうしても避けてはならない闘いがあります。最後にパウロが言いたかったのはこの闘いのことでした。
6:10−13節は、先ず、戦う敵について語ります。


「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」


敵は悪魔です。罪の悪魔的な力と言っても良いと思います。
日頃は罪の姿は見えません。氷山が見えない海面下に巨大な氷を隠しているのとおなじです。しかし信仰に立とうとするとき罪は牙をむきだします。
人をねたむ小さな意地悪がとんでもない結果を招くこと。現在のテロの残虐さ。狂ったような悪の報復の連鎖。人を越えたとてつもなく巨大な悪にあやつられているとしか思えません。この巨大な悪が相手なのです。それは素手で戦えば負けるに決まっている戦いです。


「主により頼み、その偉大な力によって強くなれば」必ず勝てます。自分が強くなることではありません。主の強さに生きるのです。戦うのは私ですが、私を通して主が戦って下さる。それで必ず勝てるのです。
キリストが私の主で、私はキリストの中に生きる。祈り、礼拝を捧げるのもこれを確認するためなのです。

2014年11月9日 「どこで、どう生きるか」
   
聖書:エフェソの信徒への手紙 6章5〜9節    説教: 
奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。
人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。
あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。


主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。

  「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように喜んで仕えなさい」


これらの言葉に出会いますと戸惑います。奴隷制度を認めていますし、弱い者に犠牲を強いて体制の安定を助けているのではないかと思えるからです。社会の仕組みの変更を訴えることが先ではないかと思えるからです。
しかしそれが出来れば苦労はありません。聖書が書かれたのは今から2千年前です。ローマは征服した民を奴隷とし、人口の4分の3が奴隷だったと言います。奴隷解放の歴史は、実に160年程前のアメリカ南北戦争の時からなのです。リンカーンも英国の奴隷解放をしたウイルバーホースも、聖書に押し出されて敢行しました。一握りの者が力んでも歴史の流れは変わることなく、歴史を本当に導く方を畏れる者によって、真理そのものに力があり、そこに立つことによってなるのです。


私たちが住んでいる社会がどういうものかを問うことは大切です。それと同じ程、その社会でどう生きるかも大切です。そういう社会で我慢しなさいとは言わずに「キリストの従うように恐れおののきつつ従え」、辛抱しなさいとは言わずに「へつらおうとしてうわべだけで仕えるな」と言います。
主人の背後にキリストを見ているのです。人生と歴史の主を見て生きるのです。

2014年11月2日 「一緒にパラダイスにいる」  
聖書:ルカによる福音書 23章32〜43節   説教:
ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕
人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
  「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」

「この言葉は、人間が生まれて祈り始めてから、これ以上神聖な祈りの言葉が天にささげられたためしがない」(パピーニ) この祈りの大きさ、執り成しの深さは愛の奇蹟というほかありません。私たちもそのように祈ってみれば、それが良く分かります。

十字架の下では、人々はみな自分の理屈で行動しました。民衆や役人は、自分たちが考えるメシヤではないとイエス様を揶揄し、兵卒たちは「ユダヤ人の王」を慰めものにしました。ピラトや祭司長たちも、自分の思惑で行動します。
十字架の上でも、強盗と殺人のかどで十字架に付けられた一人が「おまえはメシヤではないか。自分自身と我々を救って見よ」と取り乱してやけを言い、もう一人は「お前は神を恐れないのか。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない。イエスよ、あなたが御国においでになるときにはわたしをおもいだしてください」とその身をイエス様に委ねます。

「二人の犯罪人の間にある区別を忘れてはならないが、それより大切なのは。主エスはこれらの犯罪人のいずれとも共にいますということであり、イエスの約束はいずれに対しても与えられているということである」(バルト) 
一体主イエスの執り成しの祈りの外にいる人はいるのでしょうか。