説教 


2014年12月28日 「あがないの子羊」     
聖書:レビ記 16章6-22節    説教: 
アロンは、自分の贖罪の献げ物のために雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行う。
次いで、雄山羊二匹を受け取り、臨在の幕屋の入り口の主の御前に引いて来る。
アロンは二匹の雄山羊についてくじを引き、一匹を主のもの、他の一匹をアザゼルのものと決める。
アロンはくじで主のものに決まった雄山羊を贖罪の献げ物に用いる。
くじでアザゼルのものに決まった雄山羊は、生きたまま主の御前に留めておき、贖いの儀式を行い、荒れ野のアザゼルのもとへ追いやるためのものとする。
アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。
次に、主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、 主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。
次いで、雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく。
次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と、前方に振りまく。
こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う。彼は、人々のただ中にとどまり、さまざまの汚れにさらされている臨在の幕屋のためにも同じようにする。
彼が至聖所に入り贖いの儀式を行って、出て来るまでは、だれも臨在の幕屋に入ってはならない。彼は、自分と一族のために、またイスラエルの全会衆のために贖いの儀式を済ますと、 主の御前にある祭壇に出て来て、そのために贖いの儀式を行う。彼は雄牛の血と雄山羊の血の一部を取って祭壇の四隅の角に塗り、 血の一部を指で七度祭壇に振りまいて、イスラエルの人々の汚れからそれを清め聖別する。 こうして、至聖所、臨在の幕屋および祭壇のために贖いの儀式を済ますと、生かしておいた雄山羊を引いて来させ、 アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。
雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる。
  旧約聖書では、預言者が律法で身を律して生きることを教え、祭司が犠牲の動物で人の罪の赦しを神様に願います。レビ記16章は、祭司によって毎年行われる大贖罪日(7月10日)の規定を記します。ヘブライ人への手紙は、レビ記が理解されていないとわかりませんが、今日の個所は罪の赦しを全うして下さるイエス様を指し示すこととして、レビ記の中心です。


大祭司は、先ず自分のために雄牛を捧げ、次に民の罪の赦しのため雄山羊を捧げました。後では廃れたようですが、人々の罪悪を背負わせ荒れ野の奥へ追いやるアザゼルの雄山羊も用意されました。それを毎年行い続け、罪の赦しを神様に願ったのです。
「キリストは・・・恵みの大祭司として・・・人の手で作られたのでない完全な幕屋を通り、雄山羊によらないで御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられました。(自分自身と民のため、また毎年)御自身を捧げたのではありません。世の終わりにただ一度御自身を犠牲として罪を取り去るために現われて下さいました。」(ヘブル9章)


私たちが生きるために、どれだけの人に支えられているかを知っています。支えもしますがそれ以上に支えられています。どれだけの人によって支えらえているかを知ることがその人の謙遜さと比例しています。
しかし、最大の支えは神の御子です。イエス様の犠牲によってわたしたちは支えられ、神様から「よし」とされました。イエス様のしてくださったことを知ることは私の尊さを知ることです。


 

2014年12月21日 「男の子の誕生」     
聖書:イザヤ書 7章1-17節
    マタイによる福音書 1章18-25節 
  説教: 
イザヤ書7章 1−17節

ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
主はイザヤに言われた。
「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、 彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。 アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、 主なる神はこう言われる。
それは実現せず、成就しない。
アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する) エフライムの頭はサマリア、サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」

主は更にアハズに向かって言われた。
「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に、もどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。
主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」


:マタイによる福音書 1章 18−25節
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。  
   「彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。…信じなければ、あなたがたは確かにされない」


超大国アッシリアの脅威から逃れるため反アッシリア同盟が組織されましたが、ユダヤはそれに加わりませんでした。それを知ると北イスラエルとアラム(ダマスコ)の連合軍が先ずユダヤを血祭りに挙げるためにエルサレムを包囲しましたが、攻め落とすことは出来ません。それでもエルサレムのアハズ王も民の心も風にゆれる森のように動揺しました。

イザヤは言いました。「落ち着いて(自分を失わずにしっかり守り)、静かに(鳥が巣篭もるように右往左往せず)していなさい。恐れてはならない。信じなければ(神の支配をアーメンとしなければ)あなたがたは確かにされない(確かな生き方はできない)」と。
しかしアハズ王は信じることができませんでした。そんなユダヤの民にイザヤは「わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ」と神の言葉を取り次ぎました。


この約束はクリスマスに、イエス様の誕生によって成就しました。その誕生によって、神様の確かな支配と人を救うという決意を知らされました。


イスラム国の蛮行、パキスタンでの140人余の子どもの殺害、私自身も忍び寄る老いや親族・知人の病や悲しみ、そんな私たちも闇路に光を望み見て歩めるのです。

2014年12月14日 「闇の中の光」     
聖書:イザヤ書 8章23b-9章6節
    ルカによる福音書 1章40-56節
     
  説教: 
イザヤ書 8章 節23b-9章6節


先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、
後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。
彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように折ってくださった。
地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
 
 ルカによる福音書 1章 46-56節


そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも。目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。
さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。

 
   無謀にも北イスラエルと近隣の諸国はアッシリヤに反抗して、北イスラエルの北部は蚕食され、BC722年北イスラエルはアッシリヤのよって滅ぼされました。南ユダヤにもアッシリアの脅威が及び、死の影と暗黒の地に、イザヤは光を見ていました。光は輝いているわけではありません。イザヤはそのことがあたかも起こったかのように戦いの終わりとみどりごの誕生を過去形で預言します。この予言はイザヤの生前中は実現せず、この後南ユダヤも滅ぼされ、700年後、主の熱意が一人のみどりごをお送りくださいました。


マリヤは、自分の身に起こったことに戸惑いますが神様に身を委ねてからは「身分の低いこのはしためにも目を留めてくださった」と神様をたたえます。いやしい自分を意識するだけでは不十分です。そんな自分を顧みてくださる神様がいるのです。



中国の賢人は「晴れると雨の到来を思って泣いた」といます。晴れ、富み、健康がいつまでも続くはずはないのです。問題は、暗黒のなか住んでいても、いやしい自分に目を留めてくださる方を知っているかどうかです。


ユダヤ人というだけでガス室に送り込まれる中で、自殺するか、刹那的になるか、凶暴になる同胞を前に、フランクルは「この困難な最後の時に、だれかに見られている、目を止めてくれる人がいる、友、妻、そして神がいると知って者は生きられた」と言っています。問題は苦しさではなく、暗黒のなかに住み、いやしい自分に目を留めてくださる方を知っているかどうかです。


 
2014年12月7日 「キリストを迎える準備」  
聖書:マルコによる福音書 1章1-8節
    イザヤ書 40章1-11節
  説教:
マルコによる福音書 1章1-8節

神の子イエス・キリストの福音の初め。
預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」


イザヤ書 40章1-11節、

慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。
呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備えわたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。
呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。 草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。
見よ、あなたたちの神 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

  いつ解放されるか見通しのないローマの圧政のもとで苦しむユダヤの民に、バプテスマのヨハネは、罪を悔い改め、イエス様を迎えよと語ります。間違った生活の上に本当の生き方はありません。悔い改めたら救い主が来るのでなく、救い主が来るので悔い改めて、それにふさわしい迎え方をせよというのです。


「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
その昔エルサレムの住民は国が滅ぼされ、奴隷としてバビロンに連行され、地獄を見たのです。人の営みはまことにはかないものです。砂漠から吹くシロッコ風(熱風)で草も花も枯れるように、ビロンの大軍の前に自分たちの何もかもが枯れたのです。国を失うことにまさる辛さはありません。
しかしそれは、自分たちだけでなく、今圧倒的な力を誇るバビロンにも言えることなのです。この世で常なるものはありません。唯一つ確かなことは、神様の言葉、人を救うという神様のお心だけです。


これまでの預言者は「悔い改めよ、わが民イスラエルの終わりがきた」という裁きが基調でした。しかしイザヤの言葉は、全く新しいメッセージです。罪の結果を刈り取って苦しむ民に神様の「慰め」を語り、神様の人を救うという決意を語ります。
そしてついには、ヨハネが指示したように、神様はイエスを御送りくださってその赦しと愛をお示しくださいました。その救いの前に、私たちはその歩みを整えるのです。