説教 


2015年1月25日 「人生の混乱と神の摂理」      
聖書:マルコよる福音書 4章35−41節    説教: 道家紀一(立川からしだね伝道所)牧師
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
  人生に突風はつきものです。世界の歴史に嵐は吹き荒れます。
しかしそれでも、私たちの人生にも世界にも「主イエスは乗っておられます。」
しかも乗っておられるだけでなく何と“眠っておられます!”


主イエスは私たちの平安の源です。いたずらに騒がずに、この眠っておられる主=平安の主を見出して、その安らぎの中に憩うことが求められます。それは十字架の主の下にあります。
 

2015年1月18日 「祈り、祈られ」      
聖書:エフェソの信徒への手紙 6章10−20節(18-20節)   説教: 
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。


どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。


また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
 
   「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、…祈り続けなさい。また、わたしが…福音の神秘を大胆に示すことが出来るように、わたしのためにも祈ってください」


最後に祈りについて記しています。悪と戦うためにその武具を用いるとき、祈りが不可欠で、祈りなしには武具も有効に働かないからです。


「どのような時にも」とは、のべつ幕なしにと言うことではなく、問題の大きさのために祈れなくなってしまうような時にも、と言うことです。人は愛さないと愛せなくなります、祈らないことの最大の報いは祈れなくなりことです。ですからどのような時も祈れと勧めるのです。
「“霊”に助けられて祈り」とは、ローマ8:26の約束のように、聖霊が言葉に表せないうめきをもって執り成してくださっている約束の中で祈ることです。そうでなければ、問題の中で祈ることも出来ず、祈っても的をはずし、直ぐにあきらめて祈り続けることも出来ません。


「全ての聖なる者たちのために」とは、同信の友が、喜んで信仰に生き、信仰の成長ができるための執り成しの祈りです。更に言えば教会が教会となるための祈りです。


パウロは自分のための祈りも求めます。獄から出られることではなく、獄で福音を大胆に語れるようにと。何をしたいか、今の状況から神様に祈るのではなく、何が神様の御心なのかを見すえての祈りです。
パウロはこの手紙の初めで「あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝している」と言い、又私のためにも祈ってほしいを訴えています。覚え覚えられ、配処し配慮され、祈り祈られる、これが人生の豊かさです。

2015年1月11日 「神の言葉の剣」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 6章10−20節(17節)    説教: 
 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。


また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。


どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
  「救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」


これまで正義、真理、平和を武具として記してきましたが、それは救いの元となったものです。そこでパウロは「救いの兜」で救いそのものを記します。
「信仰と愛を胸当てとし、救いを希望として兜とする」(Tテサロニケ5:8)という言葉があります。救われることを望みとすることもありますが、望みの与えられることが救いでもあるのです。現実ではなく将来に望みを持つことですから、確かな希望はいつも言葉と関わっています。


「霊の剣(聖霊が与える剣)、すなわち神の言葉を取る」のです。
イエス様は「霊」に導かれて40日荒野で悪魔の誘惑を受けました。パンを与える救いの誘惑に、「人はパンだけで生きるものではない」と経済が救いでないことを明らかにされます。「わたしを拝むならこの国の一切の権力と繁栄を与えよう」との誘惑には、救いは政治の世界の妥協ではなくではなく、一人ひとりがしっかり受け止められることであるので「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と退けます。神殿の屋根の端から飛び降りて奇跡で人の心を魅了する誘いを、「あなたの神である主を試してはならない」とのお言葉で跳ね返します。


聖霊の導きは空中を飛んでくるのではありません。私たちが耐え、望み、委ね、整えられるのは聖霊の導きですが、私の内に蓄えられた神の言葉に聖霊が火をつけてくださるのです。蓄えられたみ言葉によって望としての救いがあるのです。まさかの時に私を導くみ言葉を心の革袋に蓄えていますか。

 

2015年1月4日 「信仰を盾とする」  
聖書:エフェソの信徒への手紙 6章10−20節(16節)   説教:
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。

また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
  「なおその上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。」(16)


「悪い者の放つ火の矢」とは、私たちに働きかける罪です。罪はたぐっていくととてつもなく凶悪な「暗闇の支配者」「天にいる悪の諸霊」にまでたどり着き、素手で立ち向かえば負けるに決まっている敵です。パウロは信仰の闘いを勧めるにあたって武器を提示します。多分当時のローマに兵士も持っていた武器が念頭にあったのでしょう、胸当、履物、盾、兜、剣などを信仰的にとらえ直して語ります。
兵士には石や投げやりも飛んできますが、一番恐ろしいのは火のついた矢でした。「盾」は楕円で1.5m位の大きさで、飛んでくるあらゆるものを受け止め、表には火矢が当たっても燃えつかせない牛革が張ってありました。
悪魔の放つ矢は、社会の悪もそうですが、個人の偏見、敵意、憎悪、神様の支配を信じられない取り越し苦労もそうです。火の矢はどこから飛んでくるかわかりません。信仰の盾を取ることがもっとも有効な武器なのです。


「信仰の盾」と言うとき、私たちは自分の信仰の大小を問題にします。しかし、自分の信じかたを問うてはなりません。信仰は信念ではないのですから。神様がイエス様によって私を愛し、守り、支えてくださっている。その神様を信じることが信仰であって、信じ方ではありません。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。」(創世記15:1) 神様がわたしの盾であることを信じることなのです。


病気の問屋のような三浦綾子さんは「愛の神様はわたしに悪いことをするはずがない」と言って事柄に向かったと言います。「取る」とは当てはめることです。