説教 


2015年2月22日 「隣人を愛しなさい」     
 聖書:レビ記 19章1-18節    説教: 
主はモーセに仰せになった。
イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。
あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。
父と母とを敬いなさい。わたしの安息日を守りなさい。わたしはあなたたちの神、主である。
偶像を仰いではならない。神々の偶像を鋳造してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。
和解の献げ物を主にささげるときは、それが受け入れられるようにささげなさい。 献げ物の肉は、ささげた当日とその翌日に食べねばならない。三日目まで残ったものは焼き捨てよ。 もし、三日目にわずかでも食べるなら、それは不浄なことであって、受け入れられることではない。それを食べた者は責めを負う。主にささげられた聖なるものを汚したからである。その人は民の中から断たれる。
穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。 ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。
あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。 わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。 耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。
あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。 民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。
心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
 
   「心の中で兄弟を憎んではならない。…復習してはならない。…民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」


何もない時、人は仲良く出来ますが、事が起こると愛が試されます。その際旧約聖書では外堀から埋めてゆきます。愛し・赦せと言わずに、憎むな、復習するな、恨むなと。人の性向を知っての言葉です。憎み、恨み続けると必ずそれが形をとります。復讐はもっと大きな復讐を呼び込みます。
実は問題はここから始まります。少々のことなら赦せます。一度なら復讐は考えないかも知れません。しかし過度な、度重なる悪に対しては、赦さないわたしが悪いのではなく相手の問題と思うのです。ここに旧約聖書の限界があります。


この戒めは、私が隣人を愛するという方向からでは実行できません。愛されるはずのない私が愛されていたという所からとらえないと解決できません。「わたしの目にあなたは値高く、尊く、わたしはあなたを愛した」(イザヤ43:4)と神様は言ってくださいますが、最後は独り子イエス様を遣わしてその愛の証拠をお見せくださいました。神の敵であった者が赦され受け入れられている。そこに立って初めて見えてくる世界なのです。
愛されている自分に気づいて自分を愛する。そして隣人も愛する。自分を愛するか隣人を愛するかではありません。自分を愛するのと同じように隣人も愛する。隣人を愛することは自分を愛することでもあるのです。自分しか愛さない者は人生を半分しか生きていません。


これは人として豊かに生き、みんなが一緒に生きるための戒めです。そう生きろというだけでなく、イエス様によってそう生きられる道が備えられたのです。


2015年2月15日 「愛が形をとる」     
 聖書:フィレモンへの手紙 1-25節   説教: 
 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、 姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。
わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。


わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。 というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。 わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。 兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。


それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、 むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。
彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。
わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。 本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。
恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。
その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。


だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。 彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。 わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。
そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。


あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。
ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。


キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。
主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。
  オネシモはフィレモン(フィレモンの家がコロサイ教会でした)の家で、多分盗みを働き、大都会ローマに逃げ込みました。ローマでも悪さを行い牢屋に入れられ、そこでパウロに出会い、改心してクリスチャンになりました。


コロサイ教会からパウロに差し入れをするためにエパフラス(多分コロサイ教会の牧師)が牢屋に来て、オネシモがフィレモン所有の逃亡奴隷であることが発覚しました。それを知ったパウロはこの手紙をもたせてフィレモンのもとへオネシモを送り返しました。
手元に留めておくことはできませんし、送り返すことにも問題があります。教会の皆はオネシモの前科を知っていましたし、フィレモンが逃亡奴隷にどう関わるのかを見ています。逃亡奴隷と主人が同じ教会に属し兄弟姉妹となること、それらが複雑にからまっています。


悩んだパウロはフィレモンに願いました。「奴隷としてではなく同信の兄弟として受け入れてほしい」と。キリストの愛と赦しに生きるなら、あなたもその愛と赦しに立ってほしい。すべてよいことが形をとってほしいと。
フィレモンには出来ないこともありますがフィレモンにしか出来ないこともあります。パウロはフィレモンの師として指示することも出来ましたが、お願いします。いいことは自由な中で行われてはじめて光ってきます。愛は命令されてするものではありません。ですから愛が形をとるように、何度もお願いします。


実は愛だけでなく、優しさ、誠実、信仰も形をとって初めて結実するのです。


2015年2月8日 「平和と愛と恵みがあるように」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 6章21-24節(23-24)    説教: 
わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。
彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。


平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。
恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように 
  「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように」


「人も良かれ、我も良かれ、我は人よりちと良かれ」という川柳があります。これは皆が思っていることで、そう思って何が悪いとも思います。しかし平和を考えるとき、この自分中心が問題なのです。争いや不安は、自分中心という人の罪の結果だからです。そんな罪ある醜い私たちが良いことを行って神様に受け入れていただいたのではなく、イエス様の十字架と復活によって赦され、丸ごと受け入れられました。神様との間が平和になったのです。
「平和」とは、神様との間が平和となり、自分の尊さがわかって、隣人と共に生きられることです。

「愛」も平和と同じようにイエス様によってあいされ、私たちに与えられたのです。

「恵み」とは、与えられるはずのないものに与えられる神様の好意です。


手紙の最後で、人は「ご多幸を祈ります」が、私たちの祈りは単なる挨拶ではありません。キリストによって実現したもので、心から相手にそう祈ります。
憎しみや対立の中に、私たちは平和と愛と恵みの祈りを持ち運ぶのです。

 

2015年2月1日 「励ましを伝える者」  
聖書:エフェソの信徒への手紙 6章21-24節(21-22)   説教:
わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。
彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。


平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。
恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように
  獄に入れられていたパウロは、そこで、救いの砦である教会について教える手紙を書き(コロサイ書は救いの中心であるキリストについて書いています)、最後に自分のことを心配してくれている人々にその消息を伝えることにしました。


離れている者にこちらの消息を伝えることはやさしいことではありません。不正確な消息は誤解を与えますし、場合によっては正確であればかえって心配をかけてしますことになります。信仰者にとって消息を伝えると言うことは、むき出しで独りよがりな情報を流すことではなく、相手が励ましを受けるような消息を伝えることなのです。
それは、神様の恵みの中でその事態を受け止め、その恵みの中で生きていることを伝えることです。つらければ辛いほどそうなのです。


パウロがどういう様子でいるか、何をしているかを伝えるのですが、最もよい伝達方法は人によることです。ティキコが選ばれました。彼は主に結ばれた、(神様の)愛する兄弟で、(神様に)忠実に仕える者でした。彼は信仰に立ち、考え、行動する人でした。彼はパウロの健康、裁判の様子、身辺の事情も伝えるでしょうが、それ以上にパウロが信仰に生きて喜んでいる様子、獄の中でも福音を大胆に語る様子を知らせることでしょう。
信仰に生きる、神様の愛の中で生き続けることが隣人への最大の報告であり励ましなのです。