説教 


2015年3月29日 「その打たれた傷により」     
聖書:ルカによる福音書 23章44ー56節     説教: 
 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。


さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、 同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。
この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、 遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。
その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。 イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、 家に帰って、香料と香油を準備した。
  イエス様が十字架に付けられたのは朝の9時ころでした。ピラトが驚くほど早く、午後3時には亡くなられました。
百卒長はその様子を見て「この人は本当に正しい人であった」と言い、群衆もガリラヤから来た女たちも遠くからこの様子を見ていました。「正しい人」とは神様との関係が正しいということ、「見た」とは、ただ見たというのではなく、イエス様は正しい人であるのに十字架に架けられたこと、(それによって神殿の幕が真ん中から裂け)神様との関係が回復したことの証人であったということです。


イエス様はわたしたちの罪のために身代わりになって、神様にとりなしてくださいました。私たちはその打たれた傷によって癒されたのです(イザヤ書53章)。


私たちは生きる上で罪と無縁ではあり得ません。いつもどこかで罪の影がついて回ります。その際私たちは心を柔らかくしたいと思います。だれでもしていることで、罪を犯さずには生きられないのだと開き直らずに、また逆に私たちは手を汚さずに生きていると言わずに、自分の実態を知るとともに自分の上に行われている神様の業を知りたいのです。


私が神様のために何をしたかは信仰ではありません。神様が私のために何をしてくださったかに目が開かれることが信仰です。更にそのような扱いを受けた私の尊さに目が開かれることです。

2015年3月22日 「洗礼を受ける」     
聖書:ルカによる福音書 3章21ー38節    説教:   
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、
マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、 マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、 マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタト、レビ、 メレア、メンナ、マタタ、ナタン、
ダビデ、エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、 アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、 ヤコブ、イサク、
アブラハム、テラ、ナホル、 セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、 メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、 エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。





  イエス様の系図はマタイ福音書が有名ですがルカにも記されています。マタイは「アブラハムの子ダビデの子、イエスキリストの系図」で、アブラハムの子孫を記してダビデの家系とイスラエルから始まる救いを記します。ルカは逆でヨセフからさかのぼり、ダビデ、アブラハム、アダム、そして神に至る系図を記します。ルカはイエス様の救いが全人類に及ぶことを告げています。


イエス様が洗礼を受けたのは、ヨハネの洗礼運動を承認されたからでしょう。又、それまで個人として歩んでこられた生涯に一つの区切りをつける意味もあったでしょう。しかし何よりイエス様が私たちと同じところに立ち、罪は犯されませんでしたが罪人の一人と数えられるためでした。


イエス様が洗礼を受けると天が開け聖霊が鳩のように下り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」との声がありました。つまり、イエス様の洗礼によって神様との新しい関係が開かれたのです。
恐れ多いことですが私たちがイエス様の名によって洗礼を受けるとき、同じことが起こるのです。信仰は私の願望や信念ではなく、神様もそれを「よし」としてくださっているのです。
神様と無縁に生きていたと思われるこの私も神様の救いの中に入れられているのです。

2015年3月15日 「荒れ野に響く声」     
聖書:ルカによる福音書 3章1ー20節    説教:  
 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。
  ヨハネは荒れ野に現れ。イエス様のお働きの先触れをしました。
「マムシの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」(3:7)
この鋭い問いかけに人々は言いました。「では、わたしたちはどうすればよいのですか」ヨハネは答えます。「下着を二枚持っている者、食べ物を持っている者は持たない者に分けてやれ。」徴税人にも「規定以上のものは取り立てるな」と言い、兵士にも「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言いました。
下着や食べ物を十分にもっている者はそれで安心して、もたない者の痛みがわかっているか。権力を盾に法外な取り立てや役得に生きるのでなく、神様の前で隣人と共に生きよというのです。


 悔い改めとは自分のことしか考えなかった生き方から神の前で生きる。喜びに向かって生きることです。
ヨハネは人々に悔い改めのしるしとしての洗礼を授けるだけでなく、後から来られる救い主イエス様を指示しました。


 ヨハネの生きた時代は、それは私たちの時代も同じですが、荒廃した荒れ野でした。「自己実現」は流行の言葉ですが、それが実現したときにそばにいる人の犠牲が見えているでしょうか。自分が生きることしか考えられないことが荒れ野をもっと荒れ野にしています。


2015年3月8日 「父の家」     
聖書:ルカによる福音書 2章40ー52節   説教: 
幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

    12歳になったとき、イエス様は家族と共にエルサレムに詣でました。イエス様は両親たちと一緒に帰らずに神殿に残り、境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしていました。
「座る」というのは律法を学ぶ時の姿です(10:39)。ここには神童としての姿はありません。人として逞しく育ち、知恵に満ち、何より律法と向き合って神様の前に生きられたお姿があります。
「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)の通りです。


三日後にマリヤたちがイエス様を神殿で探し当て、「お父さん」も私も心配して探していたと告げると、イエス様はおっしゃいました。
「どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」


イエス様は二重の親子関係をおっしゃられました。ヨセフがお父さんであることは間違いないけれども、神殿を指して、もう一人、私の父であり、あなたがたにも父であるお父さんがここにいると言われました。
 旧約聖書にも父なる神様は語れていますが、それは民族の父としての神様であって、「アバ・父よ」「天にまします我らの父よ」と、愛と責任をもって一人ひとりと関わってくださる父なる神様をお教えくださったのはイエス様です。
私たちにはイエス様が指示してくださったこの神様がいますので、まさかの時も大丈夫です。「悲観主義は気分だけれど、なんとかなるという楽観主義は意志である」と哲学者アランは言いました。父なる神様を知ってそこに人生の照準を合わせているかどうかなのです。
 

ルカによる福音書は「真の神にして真の人」という理屈の合わないイエス様の真のお姿を注意深く記しています。今日の個所はその二つのお姿がチラッと見えたところです。

2015年3月1日 「確実な教え」  
聖書:ルカによる福音書 1章1ー4節   説教:
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。
そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります
  ルカによる福音書は、ルカによって記され、テオフィロに献呈されました(続編が使徒言行録です)。

ローマの高官のテオフィロはルカのかつての主人だったかもしれませんし、あるいはルカ福音書を出版するためのスポンサーだったかもしれません。テオフィロはキリスト教について関心があり、ひょっとすると求道者会に出席したり、牧師と話もしていたかもしれません。それでももう一つ信仰に踏み出せなかったのです。そのことについてルカも相談を受けていたのかもしれません。
「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いて…お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」

「確実なもの」とは信じるに足るもの、そこの根をおろして絶対に大丈夫な真理ということです。イエス様によってもたらされた福音が確実なものであることを知ってほしい、それでこの福音書を書いたのでした。

信じて一歩を踏み出すためには発想の転換が必要です。自分にとって得心がいくかどうかもありますが、それ以上に神様が私たちの救いのためにどんな大きなことをしてくださっているかを知ることです。疑問をもって聖書を読むことにも意味がありますが、神様は確かにおられ、わたしの救いのためにこんなに大きなことをしてくださったという目で読むのはもっと必要です。ルカが書いたこと、わたしたちが聖書を読むのはそのためなのです。