説教 


2015年4月26日 「道に進むとき」     
聖書:民数記 10章11−36節    説教: 
第二年の第二の月の二十日のことであった。雲は掟の幕屋を離れて昇り、イスラエルの人々はシナイの荒れ野を旅立った。雲はパランの荒れ野にとどまった。
彼らは、モーセを通してなされた主の命令によって、初めて旅立った。
まず、ユダの人々がその宿営の旗を先頭にして、部隊ごとに出発した。その隊長はアミナダブの子ナフション、 イサカルの人々の部族の隊長はツアルの子ネタンエル、ゼブルンの人々の部族の隊長はヘロンの子エリアブであった。 幕屋を畳むと、その幕屋を運搬するゲルションの子らとメラリの子らが出発した。
次に、ルベン族がその陣営の旗を先頭にして、部隊ごとに出発した。その隊長はシェデウルの子エリツル、シメオンの人々の部族の隊長はツリシャダイの子シェルミエル、 ガドの人々の部族の隊長はデウエルの子エルヤサフであった。 その後で、聖なる祭具を運搬するケハト人が出発した。彼らが到着する前に、幕屋が建てられることになっていた。
次に、エフライムの人々がその陣営の旗を先頭にして、部隊ごとに出発した。その隊長はアミフドの子エリシャマ、マナセの人々の部族の隊長はペダツルの子ガムリエル、 ベニヤミンの人々の部族の隊長はギドオニの子アビダンであった。
全陣営のしんがりとして、ダンの人々がその陣営の旗を先頭にして、部隊ごとに出発した。その隊長はアミシャダイの子アヒエゼル、アシェルの人々の部族の隊長はオクランの子パグイエル、ナフタリの人々の部族の隊長はエナンの子アヒラであった。
このような順序でイスラエルの人々は部隊ごとに旅立った。
 
モーセは、義兄に当たるミディアン人レウエルの子ホバブに言った。「わたしたちは、主が与えると約束してくださった場所に旅立ちます。一緒に行きましょう。わたしたちはあなたを幸せにします。主がイスラエルの幸せを約束しておられます。」ホバブが、「いや、行くつもりはない。生まれ故郷に帰りたいと思う」と答えると、 モーセは言った。「どうか、わたしたちを見捨てないでください。あなたは、荒れ野のどこに天幕を張ればよいか、よくご存じです。わたしたちの目となってください。 一緒に来てくだされば、そして主がわたしたちに幸せをくださるなら、わたしたちは必ずあなたを幸せにします。」
 
人々は主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱はこの三日の道のりを彼らの先頭に進み、彼らの休む場所を探した。 彼らが宿営を旅立つとき、昼は主の雲が彼らの上にあった。
主の箱が出発するとき、モーセはこう言った。
「主よ、立ち上がってください。あなたの敵は散らされあなたを憎む者は御前から逃げ去りますように。」
その箱がとどまるときには、こう言った。「主よ、帰って来てください/イスラエルの幾千幾万の民のもとに。」
  イスラエルの民はエジプトを脱出し、3ヶ月かかってシナイ山の麓に来ました。そこで十戒が与えられ、幕屋を作り(出エジプト19章―40章)、幕屋を使っての礼拝の仕方を教えられ(レビ記)、エジプトを出てから2年2ヵ月後、いよいよシナイ山の麓から約束の先祖の地に向かって出発します。
 
出発に当たって民の数を数え、荒野の旅を終えて約束の国の入り口に立った時もう一度人口調査をしました。民数記の名前はこの人口調査から来ます。
 
道に進むとき、雲が幕屋を離れて昇ると人々は出発し、昇らない時は昇る日までそこに止まったのでした。これは簡単なことではありません。食べ物、飲み物、天候、敵の出現、何より病気にだってなります。もう少しゆっくりしたいと思っても雲が動いたら移動しなければなりませんし、天候や敵の状況を考えて早く移動したいと思っても動かないのです。
 
イスラエルの民は、バビロンに敗れ、国を失い、奴隷とされた未曾有の苦難の歴史を振り返って、信仰の民がどうしてそうなったのかを検証して創世記から列王記までを記しました。結局民は神の導きに従わず各自が自分の判断で進んだことでした。今日の個所で言えば、信仰は、結局この雲の柱の導きに従うことにつきます。「御心の天になるごとく、地にもなさせ給え」につきます。
 
民数記は、信仰の民が約束の地に向かって歩む記録で、私達の人生や教会の歩みの象徴です。辛くても、不利益と思えても、御心に従う。私たちはイエス様によって神様のみ心が赦しと愛であることを知らされました。これを胸に天国への道に進みます。


2015年4月19日 「今、ここにある救い」     
 聖書:ルカによる福音書4章14−30節(14−22)   説教: 
イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
 
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」
: 
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
 
イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
 
これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

  「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(4:20-21)
 
イエス様がいつものように会堂で礼拝を守られ、公生涯に入って初めて語られた言葉が『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』です。神の国(神の支配)はここに実現したのです。
 
その昔、イスラエルの民はバビロンに奴隷として連行されましたが、ペルシャによって解放されました。大きな喜びも現実の苦しい生活の中で次第に夢もしぼみ、それを励ましたのが第3イザヤと呼ばれる預言者でした。
「主が恵みをお与えになる年、…嘆いている人々を慰め…灰に代えて冠をかぶらせ…暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。」(イザヤ61:1-2)しかしなんど期待と失望は繰り返されたことでしょう。
 
私たちも礼拝します。その際一番聞かなければならない言葉は、望はあるよ、という慰めの言葉です。圧迫され、打ちひしがれ、失敗や罪に満ちた一週間を送り、まず聞くべき言葉は罪の赦しと、あなたも神様の愛の支配の中にあるよという励ましの言葉です。
イエス様によって神に国(神の支配)が始まりました。かつての日に神様の約束が成就しただけではありません。今、自分の生活が神様の愛の支配の中にあるのです。このことを知っていますか。このことが礼拝ごとに確認されていますか。

 

2015年4月12日 「誘惑を受ける」     
聖書:ルカによる福音書4章1−13節    説教: 
 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
 
更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
 
そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
 
悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
  イエス様のご生涯には3つの大きな祈りがあります。第1は荒野でサタンに誘惑され、それを否定する形で神様の与えてくださる救いをはっきりされたこと。第2は公生涯の折り返し点の山上の変貌で、これまでしてこられたこととこれからエルサレムですることを確認されたこと。第3は十字架を前にゲッセマネの園で最後に神様のお心を確認されたことです
 
人はパンなければ生きられませんし、パンの大切さを知っています。しかし動物園の動物ではありませんからパンさえあれば生きられるものでもありません。問題は神様抜きに「石がパンになるように命じて」パンを得ようとすること、人を支える隣人との関係や神様のお言葉が見えていないことです。
 
 全世界の栄華を得るなどとは考えませんが、人の欲には限りがないのです。すべてを自分の自由にしたいのです。あらゆるものを自由にするとき、人は魂を悪魔に売ります。問題は自分の欲望のままに行動するか、神様を拝するかです。
 
 宮の頂上から無傷で飛び降りたらどうなるでしょう。一時は驚いても、スプーンを曲げるのと一緒で、わたしの罪の生活に切り込んでは来ません。イエス様の奇蹟は最後まで人を救うための奇蹟でした。更に十字架から降りるような奇跡は行いませんでした。
 
 サタンはいつもその救いから私たちを遠ざけようとします。悪魔は一時離れますが、イエス様のご生涯、わたしたちの信仰生活はこの誘惑との戦いです。問題はいつも何が本当の神様の救いなのかをはっきりさせることなのです。


2015年4月5日 「なぜ生きておられる方を
           死者の中に捜すのか」
 
聖書:ルカによる福音書23章56B節−24章12節   説教:
婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。

そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。


  イースターには戸惑いあります。クリスマスはわかります。一人の男の子の誕生とそれによって神様の愛が明らかにされたこと。だれでもわかります。しかしイースターは違います。イエス様が、蘇生ではなく死者の中から甦ったこと、それはどう考えても理屈にあいません。しかも聖書はイエス様がどう甦ったかは記さず、ただ空虚な墓を示してイエス様の甦りを伝えます。納得できません。信仰とは納得することではなく信じることを伝えようとしているのです。

「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにおられない。復活なさったのだ。(24:5-6)

婦人たちが香料を手にして墓に行ったとき、天使に言われた言葉です。グラスゴ−大学のバークレー教授は、私たちも三つの仕方でイエス様を死人の中に訪ねていると言います。@イエス様を偉大な人、高貴な英雄をすることで。A研究の対象とすることで。B自分たちの模範とすることで。イエス様は愛に生き、神の勇気を持った人でした。その言葉、教え、影響力、それを知って自分の欠けを補う。イエス様を表面的にならうのだとしたら、私たちもイエス様を死人の中に訪ねているのです。

婦人達は天使の言葉を聞いて、かつてイエス様がおっしゃっておられた言葉にハッと思い当り、そうだったのかとイエス様の甦りに目が開かれました。
イエス様が甦られたということは、かつての日に甦っただけでなく、今も生きて共におられるのです。この主に祈り、信頼し、その愛を受け、私もそれに応える。そういう交わりがないとしたら、私たちもイエス様を死人の中に訪ねているのです。