説教 


2015年5月31日 「不満から感謝へ」     
聖書:民数記 11章1−25節     説教:   
 民は主の耳に達するほど、激しく不満を言った。主はそれを聞いて憤られ、主の火が彼らに対して燃え上がり、宿営を端から焼き尽くそうとした。 民はモーセに助けを求めて叫びをあげた。モーセが主に祈ると、火は鎮まった。 主の火が彼らに対して燃え上がったというので、人々はその場所をタブエラ(燃える)と呼んだ。 民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。「誰か肉を食べさせてくれないものか。 エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。 今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」
マナは、コエンドロの種のようで、一見、琥珀の類のようであった。 民は歩き回って拾い集め、臼で粉にひくか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て、菓子にした。それは、こくのあるクリームのような味であった。 夜、宿営に露が降りると、マナも降った。
モーセは、民がどの家族もそれぞれの天幕の入り口で泣き言を言っているのを聞いた。主が激しく憤られたので、モーセは苦しんだ。モーセは主に言った。「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか。なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わされねばならないのですか。 わたしがこの民すべてをはらみ、わたしが彼らを生んだのでしょうか。あなたはわたしに、乳母が乳飲み子を抱くように彼らを胸に抱き、あなたが先祖に誓われた土地に連れて行けと言われます。 この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。彼らはわたしに泣き言を言い、肉を食べさせよと言うのです。 わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。 どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください。あなたの恵みを得ているのであれば、どうかわたしを苦しみに遭わせないでください。」
主はモーセに言われた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたが、民の長老およびその役人として認めうる者を七十人集め、臨在の幕屋に連れて来てあなたの傍らに立たせなさい。 わたしはそこに降って、あなたと語ろう。そして、あなたに授けてある霊の一部を取って、彼らに授ける。そうすれば、彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる。
民に告げなさい。明日のために自分自身を聖別しなさい。あなたたちは肉を食べることができる。主の耳に達するほど、泣き言を言い、誰か肉を食べさせてくれないものか、エジプトでは幸せだったと訴えたから、主はあなたたちに肉をお与えになり、あなたたちは食べることができる。 あなたたちがそれを食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではない。 一か月に及び、ついにあなたたちの鼻から出るようになり、吐き気を催すほどになる。あなたたちは、あなたたちのうちにいます主を拒み、主の面前で、どうして我々はエジプトを出て来てしまったのか、と泣き言を言ったからだ。」 モーセは言った。「わたしの率いる民は男だけで六十万人います。それなのに、あなたは、『肉を彼らに与え、一か月の間食べさせよう』と言われます。 しかし、彼らのために羊や牛の群れを屠れば、足りるのでしょうか。海の魚を全部集めれば、足りるのでしょうか。」 主はモーセに言われた。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」
モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。彼は民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせた。
主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった
  イスラエルの「民は主の耳に達するほど、激しく不満を言った」とあります。何への不満なのかは記されていませんが、これは示唆に富むことです。あとでは食物のこととわかりますが、不満は目先のことではないのです。
 
モーセに導かれてエジプトを脱出した後、エジプトの兵隊に追いつかれての皮肉をこめた不満。エジプトから持ち出した食料を食べ尽くしての不満。マナが与えられると、マナしか食物がないとの不満。一つ一つはもっともなことで、一つ一つは解決されます。しかし一つが解決すると次の不満を訴えるのです。不満は目先の不足ではなく、その不足を通して神様が何を見せてくださるかを見ない、神様を信頼していない姿です。
 
感謝も同じです。目先のことで一喜一憂するのでなく、喜びや感謝の背後に神様の御手を見てのことなのです。
 
不満が後ろ向きで、感謝が積極的で前向きの姿勢だといった人生訓としてはとらえません。このことは信仰の問題なのです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と勧められていますが、その前に実は「神はわたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずかるように定められたのです」(Tテサロニケ5:9)と言われています。
どんな人の人生も大変です。イスラエルの民の旅のように大変でない人生などありません。
この神様に眼が開かれるところから感謝を見つけていくのです。

 

2015年5月24日 「神の愛の支配のもとで」      
聖書:ルカによる福音書 4章31−37節    説教:  
イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
 
ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
 
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。
  イエス様の言葉には権威がありました。事柄を分析し解説する言葉ではなく、神様の救いの権威を背後にもったイエス様の人生をかけた言葉だからです。(マタイ7:27−28)
 
イエス様のおられた当時、悪霊が世界中にはびこって人を汚し、病気にさせると考えられていました。今日の私たちには考えられないことです。自然科学が発達していろいろな仕組みが分かっている私たちは悪霊の素朴な表現を笑いますが、それで済むのでしょうか。人に悪さをする悪霊は下端の汚れた霊かもしれませんが、その背後には考えられない悪の力があります。

人は一つの不幸には耐えられても、二つ三つと不幸が重なると(そして不幸は二人連れ三人連れで来るものですが)人は妙な気分になります。呪いやたたりを考え、お祓いをしたくなります。人は漠然とした怖れと断固とした自分へのこだわりがあります。悪はそれをたくみにあおります。
それだけでありません。大きな悪(悪魔)の働きは人が考える以上に執拗で、どんなに世界中の人が願っても平和は来ずに悪と暴力の連鎖が続きます。一人の善意では太刀打ちできない力であって、「今も不従順の子らに中に働いていて」エフェソ2:1)決して甘くありません。

イエス様は悪霊に物言うことを許さず「黙れ、出ていけ」と命じ、悪霊につかれた男を解放してくださいました。私たちは呪いや悪の支配の中にあるのではなく「闇の力から…御子の支配下に移されている(コロサイ1:14)」のです。これを確信し、御子の愛の支配のもとにあることを喜んでいますか。
 

2015年5月17日 「つまずきを乗り越える」     
聖書:ルカによる福音書 4章16−30節    説教: 
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

  イエス様がいつものように会堂で礼拝を守られ、公生涯に入って初めて語られた言葉が『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』です。神の国(神の支配)はここに実現したのです。
しかし、故郷ナザレの人々はイエス様をうわべで判断し、イエス様から自分たちの気に入る救いを求めたのでした。
 
イエス様はそんなナザレの人々に、エリヤとサレプタのやもめの話をします。やもめはエリヤに最後の粉と油でエリヤをもたらす好意を示しましたがひとり息子が亡くなりました。「あなたはわたしに不幸で報いた」と詰めよるやもめはエリヤによってもう一度息子を生き返られてもらい、神様の臨在に目が開かれました。
更に、エリシャとナアマン将軍の話もします。重い皮膚病をもったナアマン将軍が神の人エリシャが自分を迎えもせず、手をおいて祈ってくれるのでもなく、ヨルダン川で7回身を清めなさいとの言葉をいい送ったことに腹を立てますが、部下の言葉にプライドを捨ててヨルダン川で身を清め、神様の臨在にふれました。
 
神の民である自分たちを差し置いて神を知らない異邦人に神様の業が行われたという話がかえって誤解を生みイエス様は命の危険にさらしました。しかし、信仰は自分の願望や煩悩の応援団ではなく、自分の思惑や願いを捨てて神様の与えてくださる救いに身を委ねること。神様の愛の支配と臨在に身を置くことだとお教えくださったのです。

 

2015年5月10日 「希望があるから生きて行く」     
聖書:ヨハネによる福音書 2章1−11節    説教: 小島誠志牧師
 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。



  婚宴の席でぶどう酒が尽きてきました。
これはわたしたちの人生に似ています。若い時に持っていたエネルギー、力、能力は尽きてくるのです。そして次第にあきらめることを覚えるようになります。
 
「ぶどう酒がなくなりました」とイエスに言った母マリヤの言葉は訴えであり祈りでありました。イエスのこたえは「わたしの時はまだ来ていません」でした。マリヤの祈りは、今こたえて欲しいということでしたが、イエスの時があるのです。神の時があります。人の願う時ではなく、神の時がある。それは神にとって都合のいい時というのではありません。神の時はわたしたちにとってもっとも好い時なのであります。祈りがこたえられるということはそういうことです。
 
ですからマリヤは備えました。召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください]と言いました。祈った人は前に一歩踏み出すのです。前方に目を向け踏み出して行く、その姿勢が信仰者のあかしです。
 
召し使いたちは大きな石の水がめに水を運ぶように命じられました。彼らは村の中央にある井戸に何度も往復をして水を運びました。重たい水を、どうして運ばなければならないのかわかりませんでした。わかりませんでしたが黙って運びました。水を運ぶ意味は自分たちにはわからないけれど、それをわかっていてくださる方がおられる、そのことを信じたからであります。
水は最上のぶどう酒に変えられていました。宴会の世話役はなぜそんなことが起こったのかわけがわかりませんでした。「召し使いたちは知っていた」と記されています。
 
人生の労苦、悩み、重荷、なぜこれを今、自分が負わなければならないかわたしたちにもわかりません。でもそれを知っていてくださる方がある、最上のぶどう酒に変えてくださる方がある、だからわたしたちは生きるのです。

2015年5月3日 「恵みを記念し、恵みを刻む」  
聖書:創世記 28章10−22節   説教:
ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 見よ、主が傍らに立って言われた。
「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
ヤコブは眠りから覚めて言った。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
そして、恐れおののいて言った。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いでその場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。
ヤコブはまた、誓願を立てて言った。
「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」



  ヤコブは不安と寂寥の中でルズの野に来ました。当然なのです。兄エサウの目先のことしか考えない性格を見ぬいて長子の特権を奪い、父の死が間近なことを利用して神様の祝福をだまし盗ったのですから。兄エサウの恨みをかって故郷を出ざるを得なくなり、伯父ラバンの家に向かいますが、その旅の途中の出来事です。
 
 彼は石を枕に野宿して真っ暗な中でこれまでしてきたこと、これから先のことを考えたに違いありません。喜びや楽しみは人生に彩りを与えますが、失敗やそれを刈り取る苦しみや悲しみで自分に向き合い、人生を深めます。
ヤコブの様子を世間の人は罰が当たったと言い、ヤコブも自分の蒔いたものを刈り取った当然の結果と考えたに違いありません。そんなヤコブに神様が夢に現われ、言われました。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。…わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行ってもあなたを守り、わたしはあなたを決して捨てない」と。
 
彼は神様を発見し、神様から発見されていた自分に気付いたのです。そこで彼は「私はあなたを捨てない、生きよ」と聞いたのです。彼はそこをベテルと名付けそれを記念しました。
 
 この後、彼は伯父ラバンの家で一財産を造りますが、そこでも伯父の恨みを買い、故郷に帰ります。しかし、今度は彼がしたと同じような偽りによって息子の起こした事件で窮地に立たされます。その時彼は「これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難のときわたしに応え旅の間私と共にいてくださった神に祭壇を築こう」と、その信仰の原点に立つのでした。
 
私たちは、ヤコブや放蕩息子ほどではありませんが、自分の蒔いたものを刈り取って苦しみ、自分を超える神様の愛に触れて神様に結び付けられました。そこから始まって、いつもそこに立ち帰って人生に神様の恵みを刻み続けていくのです。