説教 


2015年6月28日 「嫉妬を克服する」       
聖書:民数記 11章35−12章8節    説教:  
 民は、キブロト・ハタアワを旅立ち、ハツェロトに来た。彼らがハツェロトにいたとき、 ミリアムとアロンは、モーセがクシュの女性を妻にしていることで彼を非難し、「モーセはクシュの女を妻にしている」と言った。
彼らは更に言った。「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。」主はこれを聞かれた。
モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。
主は直ちにモーセとアロンとミリアムに言われた。「あなたたちは三人とも、臨在の幕屋の前に出よ。」彼ら三人はそこに出た。 主は雲の柱のうちにあって降り、幕屋の入り口に立ち、「アロン、ミリアム」と呼ばれた。二人が進み出ると、主はこう言われた。
「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば、主なるわたしは幻によって自らを示し夢によって彼に語る。 わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。
口から口へ、わたしは彼と語り合う、、あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず、わたしの僕モーセを非難するのか。」
  ミリアム(モーセの姉)とアロン(兄)はモーセがクシュの女性を妻にしたことで彼を非難し、更に「主はモーセを通してのみ語られるのか。我々を通しても語られるのではないか」と言いだしました。モーセの妻のことはきっかけで本当は自分たちがもっと重んじられたいという嫉妬なのです。
 
神様は、「わたしの僕モーセには、口から口へわたしは彼と語り合う」と言い。モーセは他の人と別格であると言います。そしてそれはミリアムについても、アロンについても同じで、その人にしか出来ない賜物が与えられているのです。
 
鵜の目鷹の目で人の欠点を探し、見つかるとそれを言い立てる。自分以上に他人が重んじられることが腹立たしいのです。いつも自分中心で注目されていたいのです。これが嫉妬「青い目のモンスター」(西洋の言葉)の正体です。
嫉妬はみにくく、何とかしたいと思っても何とかなるものではありません。人には心の中の悪を追い出し、ポンプで吸い出すようなことは出来ないのです。これは不安、悪意、恨み、好色等悪の思いの全てに言えることで、自分を超える神様に結びついて初めてそれらを駆逐させていただける事です。
 
何故、いつまでも自分が中心でいたいのですか。私の上にもそして隣人の上にも、神様のみ業が行われていることに目が開かれないのでしょうか。なぜ神様の祝福をその人に祈れないのでしょうか。
自分の尊さが分かっていますか。「わたし(神)の目にあなたは値高く、尊い」(イザヤ43:4)と言われていることが心に響き、身に染みていますか。

2015年6月21日 「そうしてあげよう、清くなれ」      
聖書:ルカによる福音書 5章12−16節     説教: 
イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。
イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
 
イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」
しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
   イエス様の行状を記した福音書を読む時、特に礼拝式の中で読むときはイエス様についての知識を得る時でなく、イエス様と出会う時です。
 
聖書には重い皮膚病についての描写がそこここにあります。口語訳聖書ではその言葉を全て「らい病」と訳していますが、中にはいわゆるハンセン病もありますが、家や衣服のらい病などありませんから、新共同訳では「重い皮膚病」と訳しています。
重い皮膚病は、病気そのものも恐ろしいものでしたが、人との交わりから締め出され、天刑病として神様の恵みからも除外されていました。それを罹病した人は自分の誕生を恨み、運命を呪い、なんの希望もない生きる屍のような日々だったに違いありません。何で自分だけがこんな目にと何度思ったことでしょう。
 
そんな彼の住むところにイエス様がこられたと知ると、彼は「御心でしたら清めていただけるのですが」と訴えました。自分の不運を嘆いたり呪うだけでは問題は解決しません。求めのないところに問題の解決はありません助けてほしいと声を上げるのです、イエス様に向かって。
 
イエス様も「そうしてあげよう、清くなれ」と応えられました。あげた声を聞いてくださる方がいるのです。声を上げるだけなら、ひとりごとです。信仰は私の願望ではなく、私の一方的な願いでもなく、イエス様もそれを受け止めて下る。この関係に生きることです。そのイエス様に礼拝の中でお会いするのです。
イエス様と出会い、イエス様の支配の中に入れられていることがはっきりしていますか。

2015年6月14日 「沖へこぎだす」     
聖書:ルカによる福音書 5章1−11節    説教: 
イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
  夜通し働いて何の獲物もなく、むなしく網の手入れをしていたペトロに頼んで、彼の舟にのって人々に教えられました。話が終ると「沖へ漕ぎだし、網をおろし、漁をしなさい」と言われました。
生粋の漁師ペトロからすれば、「沖へこぎ出し、網をおろし、漁をしてみなさい」と言われるイエス様の言葉は合点のいかないものでした。漁は昔も今も夜と決まっていますし、投網は浅瀬で打つものなのです。
それでもイエス様のお言葉に押し出されてやってみると、目を見張る大漁でした。ペトロはそこで人の思いを覆す神様の御業に触れました。更にイエス様に目が開かれ、自分の罪深さを知らされ、新しい使命を与えられました。
 
この話は、人生が自分の思い通り行かず、その努力が徒労に終わるかもしれない私たちの人生の象徴でもあります。
私たちは、自分の経験や計算に裏打ちされた生き方があります。計算が悪いのではありません。信仰は、経験に基づいていた判断を無視することでもありません。(ルカ14:28以下) 
しかし信仰は、経験と予想に生きることでもありません。手堅く計画し、計算があっても、「しかし、お言葉ですから」と神様の愛の支配にかけて一歩を踏み出すことです。発想の転換をすることではありません。人生を決定するのは自分の技術や努力ではないのです。そもそも私たちには人生を決める力などないのです。
「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」(箴言16:9)
イエス様のお言葉、愛の支配に流されてみませんか。

 

2015年6月7日 「いやしと福音」  
聖書:ルカによる福音書 4章38−44節   説教:
イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。
 
朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」
そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。


  イエス様のおられるところに人々は吸い寄せられるように集まりました。みな病気やけがの不安におびえていたのです。イエス様もその活動の初期にはそれに応えられました。
 
病気については「19世紀までは病原菌によっておこる病気が主流を湿ってきたが、今日は胃潰瘍、高血圧症、心臓病といった慢性疾患が支流を占めている。それはかかる時も治る場合も気持ちの安定と深く関係している」と言われ、エイズやエボラ出血熱など相変わらず細菌による病気もありますが、現在人を脅かす病気の主流を占めているのは慢性疾患です。
 
英語で病気が治ることを「ヒール」と言います。ヒールは肉体の癒しだけでなく、悲しみや苦痛を取り除く、敵と仲直りするという意味もあります。へブル語では「シャレーム」と言いますが、シャローム(平和)と同じ語幹からなっています。平安から病の癒しは来るのです。
病気は病気だけをとらえるのではありません。病気はそれが人を縛り、やがては死につながりますから人生の大問題ですが、そのことだけに焦点を当てるのでなく自分が生きる全体の中でとらえます。

ユダの王アサは「その治世39年に足の病にかかり、その病は極めて重かった。その病の中にあって彼は主を求めず医者に頼った」(歴代誌下16:12)とあります。病気で医者を求めるのが間違いではなく、病気を含めてその生き方を主の前に整えないことが誤りで、聖書の癒しを的確に語っています。
 
イエス様は悪霊につかれたものに「おまえは神の子だ」言うことをお赦しになりませんでした。イエス様は神の子ですから皆に知られた方がいいと思いますが、十字架と復活による救いがなる前に病気の癒しだけが広まるのを許さなかったのです。
 
病気になると人は弱気になります。不治の病となればなおさらです。人は暗黒の中に投げ出され、悪い宿命の下にあるのではありません。十字架と甦りのイエス様によって神様の愛の支配がはじまったのです。この神様の愛の支配の中で生きることをとらえ、病気をとらえていますか。