説教 


2015年7月26日 「現実をどう判断するか」     
聖書:民数記 13章17−33節     説教:  
 モーセは、彼らをカナンの土地の偵察に遣わすにあたってこう命じた。「ネゲブに上り、更に山を登って行き、 その土地がどんな所か調べて来なさい。そこの住民が強いか弱いか、人数が多いか少ないか、 彼らの住む土地が良いか悪いか、彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのか城壁があるのか、土地はどうか、肥えているかやせているか、木が茂っているか否かを。あなたたちは雄々しく行き、その土地の果物を取って来なさい。」それはちょうど、ぶどうの熟す時期であった。
彼らは上って行って、ツィンの荒れ野からレボ・ハマトに近いレホブまでの土地を偵察した。彼らはネゲブを上って行き、ヘブロンに着いた。そこには、アナク人の子孫であるアヒマンとシェシャイとタルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンよりも七年前に建てられた町である。 エシュコルの谷に着くと、彼らは一房のぶどうの付いた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担いだ。また、ざくろやいちじくも取った。
この場所がエシュコルの谷と呼ばれるのは、イスラエルの人々がここで一房(エシュコル)のぶどうを切り取ったからである。
四十日の後、彼らは土地の偵察から帰って来た。
 
パランの荒れ野のカデシュにいるモーセ、アロンおよびイスラエルの人々の共同体全体のもとに来ると、彼らと共同体全体に報告をし、その土地の果物を見せた。 彼らはモーセに説明して言った。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。 しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。 ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます。」
 
カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」
しかし、彼と一緒に行った者たちは反対し、「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」と言い、
イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。 そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」
  モーセは12人の斥候を選んで、これから目指す約束の地カナンを偵察させました。12人は40日間、カナンの地を行きめぐりその結果を復命しました。「そこはまことに乳と蜜のながれる地です。これはその地の果物です。しかし、その地に住む民は強く、その町々は強固で非常に大きく、…アナク(他の民より首一つ大きい巨人)がいるのをみました)
カレブは言いました。「わたしたちはすぐに登って攻めとりましょう。わたしたちは必ず勝つことが出来ます」
 
彼と共に行った人たちは言いました。「わたしたちはその民のところへ攻め登ることができません。彼らはわたしたちより強いからです」
 
この報告を受けた後が大変でした。民は混乱し、モーセとアロンに食ってかかり、神様はイスラエルの不信仰に怒り、モーセは必死で民のために執り成し(14:13−19)、神様は40日の偵察に合わせて40年荒れ野を旅して信仰の訓練を受けることとしました
 
見るところは同じです。しかしその事実から何を引き出すかはそれぞれ違います。
信仰は事実を無視することではありません。しかし事実だけを見ることでもありません。嬉しい現実、逆に悲しく痛ましい現実もあります。これは信仰者も信仰を持っていない人も同じです。その現実の背後に神様の導きの御手を見ているかどうかが違うのです。
 
「信仰とは望んでいる事柄(神様によって約束されていること)を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブル11:1)



2015年7月19日 「喜びの教え」      
聖書:ルカによる福音書 5章33−39節    説教:  
 人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」
 
そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」
 
そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。
また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。
また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
  「ヨハネの弟子たちはしばしば断食をし、又祈りをしており、ファリサイ派の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子は食べたり飲んだりしています」 これは人々の素朴な疑問でした。ヨハネやファリサイ派の弟子たちは週に二度断食をしているのに、イエス様の一行はよく食べよく飲むのです。(マタイ11:19)
 
「あなたがたは花婿が一緒にいるのに婚礼の客に断食をさせることが出来るであろうか。しかし花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」 イエス様は断食を否定しているのではありません。イエス様は花婿として私たちを花嫁として迎えるために来てくださいました。ですからイエス様の教えは神様との喜びの関係に入る婚礼の教えなのです。
誠実に自分を見据える断食は必要です。しかし、自分が何をしたかより自分のためにイエス様が何をしてくださったかを知ることはもっと大切です。
 
人生での喜びの頂点は互いの愛が結実する婚礼です。しかし婚礼の後には自我の張り合いの現実が待っています。
イエス様の婚礼への招きの教えは婚礼の喜びだけでなく、罪も弱さも受け止め、赦しによってさらに愛が深められてゆく教えでもあります(ホセヤ2:21−22、11:8−9)。この神様との関係に私たちを招いてくださっているのです。
イエス様によって招かれ、しっかり私たちを受け止めてくださっている神様との関係に生きていますか。

2015年7月12日 「食事を共にするイエス様」     
聖書:ルカによる福音書 5章27−32節    説教: 
 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
 
イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
  レビは信仰の家庭に生まれましたが、どこで道をそらしたのか皆の嫌う徴税人になっていました。そんな彼を見てイエス様は、あなたの生き方は違う、「わたしに従いなさい」と招かれ、彼もそれに応えてイエス様の弟子になりました。彼はその感謝や、新しい出発を祝う宴会を開きました。
品行方正なファリサイ派の人々は、イエス様が徴税人や罪人と食事を共にしているのを見て言いました。「どうして徴税人や罪人たち飲食を共にするのか」と。
 
そう言われても当然です。徴税人はローマから請け負った税金(ローマの支配下の民に課せられた貢物)に法外な上乗せをして人々から取り立て、税を搾り取るのでした。ローマの威を笠に着て、したい放題のことをしていたのです。罪人とは、神様の律法を故意に守らない無頼漢です。
そんな人とイエス様は食事を共にしていました。食事を共にするのは、その人と一体となり喜びも悲しみも共に担う関係に入ることです。
 
「健康な人に医者はいらない。いるのは病人である」病人とは、あきらめ、開き直り、人生をなげている人です。直そう、治りたいと思ったら病気は半分治っています。
レビにあなたの生き方は間違っている。社会があなたを差別しているのではない。あなたは自分の本来の生き方に立ちなさい。私に従って来なさいとレビに寄り添って下さいました。
イエス様が、あんな人と一緒にいるのかと思っているうちは、福音はわかりません。「あんな人」が私なのです。あなたは本当に健康かと問われ、招かれているのです。礼拝はこのイエス様の寄り添いに目が開かれる時です。

2015年7月5日 「救いが行われる条件」  
聖書:ルカによる福音書 5章17−26節   説教:
ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。
すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。 しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
 
ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。
人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

  4人の男が屋根をはいで、中風の男をイエス様の前につり下ろしました。非常識です。しかし、事と場合によっては常軌を逸する行動が必要かもしれません。彼らはなんとかしてイエス様と中風の男を出会わせたかったのです。
 
中風の男に「あなたの罪は赦された」とイエス様は宣言されました。赦しは双方をつなぐものです。神様と中風の者をつなぎ合わせて下さったのです。
ファリサイ派の人々は、罪を赦すことの出来るのは神だけであるのでイエスは神を冒涜していると考えました。これは一般論なら尤もな事です。罪の赦しには証拠がありませんから、口先だけならそれを語ることもできます。しかしイエス様のお言葉には、その言葉どおりに事を起こす力のあることを、中風の者を癒すことで人々に明らかにされました。
 
この人は体質からでしょうか、不摂生を刈り取ってのことでしょうか、業病にかかって人のお世話によって生きる自分に絶望し、いつも死の不安におびえていたに違いありません。しかし、もう一度神様とつなぎあわされたのです。神様の愛の導きを信じて歩めるのです。
 
苦しんでいる人にはいろいろな人の支えがあります。しかし信仰に生きる人のためには、信仰に生きている人の執り成しがどうしても必要です。イエス様はそれを喜び、それを用いて御業を現わしてくださいます。