説教 


2015年8月30日 「従うということ」      
聖書:民数記 15章27−36節    説教:   
もし、個人が過って罪を犯したときは、一歳の雌山羊一匹を贖罪の献げ物としてささげなさい。 祭司が、過って過失の罪を犯した人のために、主の御前に贖いの儀式をすると、彼の罪は赦される。イスラエルの人々のうち、その土地に生まれた者も、あなたたちのもとに寄留する者も、過って罪を犯した場合には、同一の指示に従う。
だし、土地に生まれた者であれ寄留者であれ、故意に罪を犯した者は、主を冒涜する者であり、その人は民の中から断たれる。 彼は主の言葉を侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断たれ、その罪責を負う。
 
イスラエルの人々が荒れ野にいたときのこと、ある男が安息日に薪を拾い集めているところを見つけられた。
見つけた人々は、彼をモーセとアロンおよび共同体全体のもとに連れて来たが、 どうすべきか、示しが与えられていなかったので、留置しておいた。
主はモーセに言われた。「その男は必ず死刑に処せられる。共同体全体が宿営の外で彼を石で打ち殺さねばならない。」
共同体全体は、主がモーセに命じられたとおり、彼を宿営の外に連れ出して石で打ち殺したので、彼は死んだ。
  実にむごい話です。盗みをしたり、殺人をしたのではなく、安息日に薪を拾い集めたというだけで石で撃たれたのです。
過失で罪を犯す者、故意に罪を犯す者の規定が記さた後安息日の戒めをを破る者の実例としてこの記事はあります。ここには極端な記述ですが、信仰とは何か、神様に従うとは何かが記されています。
 
イスラエルの民は神様の約束を信じて困難な荒野の旅を続けました。荒野の旅には厳しさが必要です。敵がいつ襲ってくるか分かりません。健康を損ね、内輪争いが起こり、少しの気の弛みは皆の破滅につながります。これらが問題です。しかし、敵は外から襲うこともありますが、それ以上に自分の内にある甘えとずるさです。
従いたい時に従い、従いたくない時には従わない。それは従うことではありません。従うとは、従いたくない時にも従うことなのです。自分に神様を合わせるのではなく、神様に自分を合わせること、これが信仰です。これがはっきりしないと信仰もはっきりしません。

神様に従うことがどういうことか、ヨブは訪ねてきた友人に言います。「黙ってくれ、わたしに話させてくれ。どんなことがふりかかって来てもよい。 たとえこの身を自分の歯にかけ、魂を自分の手に置くことになってもよい。 そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。 このわたしをこそ、神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら。御前に出るはずはないではないか」(ヨブ13:3−16)ここに新約聖書にはない腹をくくった信仰の姿があります。(参ダニエル3:17−18)
旧約聖書では如何に神さに応えるかが問われていますが、新約聖書では、守れない私たちのために神様がいかに深く関わってくださったかに力点があります
私たちはイエス様によって神様が愛であることを知らされました。神様の愛を信じ、神様を畏れて従う、これで絶対に間違いはないのです。



2015年8月23日 「貧しい人の幸い」     
聖書:ルカによる福音書 6章20−26節      説教:  
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
 
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
   「あなたがた貧しい人たちは幸いだ。神の国はあなたがたのものである。…しかしあなたがた富んでいる人たちは災いだ。慰めを受けてしまっている」
 
この言葉に私たちは戸惑いを覚えます。私たちは富んだ人が幸いであり、貧しいことはむしろ不
幸だと思うからです。
人は失ってみないとわからないことがあります。健康を失って人の弱さがわかり、苦しんでみてはじめて人の闘いに目が開かれます。得ることだけに価値があるのではありません。失うことにも価値があり、失って初めてわかることであり、それは人生の真実に目を開かせる入り口なのです。
 
イエス様は更に言われます。「神の国はあなたがたのものである」と。貧しさほど人にみじめさを覚えさせるものはありまぜん。自分の無力、小ささをいやというほど知らせます。自分の無力を知ることが神様に目を開かせます。
苦労を知らない放蕩息子は遠い地でお金を使い果たしブタをうらやむくらい落ちぶれました。そこで自分には父がいることに気づき、詫びを言って雇人の一人に加えてもらおうと家路につきます。
父は遠く離れていたのに彼を認め、走り寄り、「雇い人の一人」を言わせず、新しい服を着せ、履物を履かせ、彼に帰還のお祝いをしました。豚小屋で考えていた以上の父の姿がそこにありました。
 
あのことこのことをもつ幸いでなく、どんなことがあっても神様は私をゆるし愛のご支配の中に入れてくださっていることを実感して歩める幸い。これが信仰の喜びです。なまじ頼るものを持っていると、それに目がふさがれ、真に私を支える方に目を開かせないのです。

2015年8月16日 「キリストの弟子」     
聖書:ルカによる福音書 6章12−19節     説教: 
そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、 マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、 ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。
イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
 
  イエス様を取り巻く雰囲気は次第にあわただしくなってきました。イエス様をいつでもどこまでも追いかける熱狂的な人々と、逆にその欠点を狙い、ひそかに殺害を企てる人々です。
こんな状況の中で、イエス様は自分を狙う人への備えたのではなく(ユダヤ教団へわずか12人では立ち迎えるはずがありませし) また、熱狂的に支持するのでなく、自分が伝えたいことを担ってくれる人々を組織したのです。
 
弟子たちを呼び寄せ、12人を選び、使徒という名前をお与えになりました。「弟子」とは学ぶという言葉からなっています。「使徒」とは遣わされた者(大使)という意味です。イエス様にしっかり目を注いで神様のみ旨を学び、その知らされたことをイエス様に代わって語り、行動します。
 
イエス様によって神様の愛の支配がはじまったのです。選ばれた一人ひとりは、そして弟子はこれをしっかり見据え、周りの者・次の世代にそれを伝えるのです。
 
その選らばれた一人ひとりの弟子は力も知恵もなく、むしろイエス様の足手まといになりかねない者たちです。それは私たちも同様です。
その弟子を愛し、支え、赦すキリスト。このキリストの愛と赦しを体験し、そこに喜んで生き、それを伝えるのです。こんな喜びはあるでしょうか。

2015年8月9日 「安息日を守る」     
聖書:ルカによる福音書 6章6−11節    説教: 
また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。
律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。
イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。
そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。
ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。
 
  歴史の中でユダヤ人ほど迫害された民はいません。ところがユダヤを迫害したアッシリヤ、バビロン、マケドニヤ、ローマも歴史の中に埋没ましたが、ユダヤは今もなお国を造り続けています。その根拠は、神の民である印の割礼を身におび、安息日を守り続けたことだという人がいます。(私たちで言えば洗礼と主日礼拝です)
 
「安息日を覚えてこれを聖とせよ」 ユダヤ人はこれを本気で文字通り守っていました。どう守るかを数量化し、守り方について300余の細則を作ったのです。そんなユダヤの民を私たちはそれを滑稽に思い、なんと不自由なことかと思います。
このことを笑うことはできません。私たちは弱いのです。理屈をつけて例外を作り、いつの間にか戒めを骨抜きにしてしまします。数量化されればごまかしはききません。形はどうでもいいものではありません。私たちは形から崩れていくのです。
 
しかし形さえ守ればいいのでしょうか。イエス様はこれを問われます。形を問題にすることよってしばしば隣人が切り捨てられます。形を守ることが目的となり、形を守ることで自分は満足し、人が生きることが抜け落ちます。自分の原則に生きるのはいいのですが、隣の人が見えなくなります。自分が生きると共に隣の人も一緒に生きられないでしょうか。
神を拝し、人を愛する。この大原則は安息日の守り方でも問われているのです。形を整えているでしょうか、更に形に内実が伴っているでしょうか。隣人が見えているでしょうか。

2015年8月2日 「安息日の主」  
聖書:ルカによる福音書 6章1−5節   説教:
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。
ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。
イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」
そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」

  弟子たちは麦の穂を取って口に入れました。ファリサイ派の人々は目ざとくそれを見つけ非難します。人は理由をつけてその戒めを形骸化してしまいますが、ユダヤ人はそれを数量化し、具体化して守りました。麦の穂を摘むことが悪いのではなく(申命記23:25)、安息日にそれをしたこと(収穫、脱穀、調理などの労働)が悪いというのです。
イエス様は、ダビデがサウル王から逃亡する際、祭司以外口にしてはならない備えのパンを口にした故事を引いて(サムエル記上21章)、戒めを守ることの意味(人の命の尊さ)を教えられます。戒めは人を生かすために守るのであって戒めを守るために守るのではないのです。
 
十戒の第4戒「安息日を心に留め、これを聖別とせよ」は、人が人として生きることに不可欠なことで、イエス様はこれを否定したのではありません。問題はそれをどう守るかなのです。
安息日は「休み」「止める」時です。休息は休みなしにはありません。休みはリクレーション、リ・クリエイト、再創造の時です。いかに休むかは如何に生きるかと深くかかわっています。休みなく過酷な労働が強いられる現代への警告です。
それは体だけでなく、魂においても同様です。「人の子は安息日の主である」と言われ、あの十字架と復活のイエス様、真に私たちを配慮してくださっているイエス様が安息日ごとに主とあがめられることから来ます。
 
安息日を守ることは、@守れる時は守って、守れない時は守らないと言うのでなく、守れない時もあるが守るという姿勢。Aこれは義務としての務めではなく権利だ、と言われた方の言葉が印象的でした。